秋元通信

南三陸町の記憶

  • 2018.10.11
高野会館。従業員の勇気ある行動が、327名と犬二匹の命を救った。

高野会館。従業員の勇気ある行動が、327名と犬二匹の命を救った。

 
 
 
筆者は毎年秋になると、岩手県陸前高田市に行っています。
同地で行われる復興支援サイクリングイベント『ツールド三陸』に、サポートライダーとして参加するためです。
今年はイベント参加後、南三陸町にある『ホテル観洋』に宿泊し、同ホテルが開催する『語り部バス』に参加してきました。
東日本大震災を語り伝える同ツアーをレポートしましょう。

※以降の画像は、すべてクリックで拡大します。
 
 

東日本大震災における、宮城県南三陸町の被害状況

 


 
南三陸町は、宮城県北部にある街です。三陸の海沿いに位置する他の街同様、風光明媚なリアス式海岸が続く、美しい風景とともにあります。
2011年3月11日に発生した未曾有の災害、東日本大震災によって南三陸町は深刻な被害を受けました。
死者620名、行方不明者211名、市街中心部の約8割が津波によって失われ、建物の被害は3321戸におよびました。
 
震災当時、南三陸町の人口は、17,666名(5362世帯)でした。
震災から7年が経過し、街は復興の途中にありますが、現在の人口は13,106名(4582世帯)にまで減少しました。
防潮堤が建設され街の復興は進みますが、肝心の住民が減っています。
 
 

南三陸ホテル観洋とは

 


 
南三陸ホテル観洋は、南三陸町の中心部から直線距離で2kmほど南にある、海岸沿いに建つ大きなホテルです。
244の客室は、すべてがオーシャンビューであり、天候に恵まれれば海から望む朝日を愛でることができます。残念ながら、私は台風の影響でご来光を観ることができませんでしたが、海を望む巨大温泉、客室から広がる志津川湾の織りなす複雑な景色など、三陸の美しさを満喫できるホテルでした。
 
東日本大震災が発生した当日、ホテル観洋には客、スタッフ、そして避難してきた地域住民を合わせて350名がいたそうです。
ホテルは、2階の大浴場まで津波が浸水したものの、建物そのものが大きく被害をうけることはありませんでした。しかし、電気・水道・道路などのライフラインが絶たれ、孤立状態になります。
宿泊者のチェックアウトがすべて完了したのが震災から7日目、電気が普及したのが36日目、水道が復旧したのはなんと114日目だったと言います。そんな困難の中、南三陸ホテル観洋は地元被災者約600名を二次避難所として受け入れました。二次避難をされていた住民の方々が、全員仮設住宅などに移られたのは震災から174日目、2011年8月31日のことだったそうです。
 
南三陸ホテル観洋は、自らの身を削って地元を救い、守り、南三陸町復興の大きな力として活動されてきました。
そして今は、震災を語り継ぎ、防災の学びを共有するため、さまざまな活動にご尽力されています。
 
 
さて、ここからは私が「語り部バス」にて語り部を務めた、南三陸ホテル観洋:伊藤さんのお話をレポートします。
 
 

高野会館 「生きたかったら残れ!」

 


 
東日本大震災が発生した時、総合結婚式場『高野会館』には約330名の方がいらっしゃいました。ちょうど、街の高齢者を集めたイベントが開催されていたからです。
逃げ出そうとした人々に対し、従業員は仁王立ちになって行く手を遮ったと言います。
 
「生きたかったら残れ!」
 
高野会館の堅牢性に、従業員は信頼をおいていました。
 
「老人たちの足では、避難する間に津波に飲まれてしまう」
 
結果、従業員たちの英断によって、高野会館屋上に避難した327名と犬二匹の命が救われたそうです。
ただし、「チリ地震(1960年)の時も、自宅には津波が届かなかったから」と言って、自宅に戻った方もいらっしゃったとか。その方は残念ながら津波にのまれて亡くなったそうです。
 
 

戸倉小学校 命を救った「地元の声」

 


 
南三陸町戸倉地区にあった戸倉小学校の児童、職員、そして地元住民たちは、高台にある神社に避難し、津波から免れました。
実は、日頃の避難訓練の際、消防からは「避難場所は小学校屋上で良い」と指導を受けていたとのこと。戸倉小学校は3階建てであり、4Fにあたる屋上は避難場所としては適当であると考えられます。その意見に異を唱えたのは、地元出身の教諭だったそうです。
 
「少し先にある神社を避難場所としましょう」
 
校長先生は町外出身だったそうです。しかし、消防の指導よりも、地元出身者の意見を採用し、311当日も神社を避難場所として選択しました。
 
皆さまもご存知であろう、石巻市立大川小学校においては、避難判断の過ちにより、児童74名、教職員10名が尊い命を失いました。
避難という極限時における判断の大切さ、難しさを、大川小学校、戸倉小学校のエピソードは教えてくれているのではないでしょうか。
 
戸倉小学校の体育館は2011年3月1日に落成し、卒業式で使われる予定でしたが、津波によって破壊されました。
神社に逃げて無事だった児童や住民の皆さんですが、一晩を野外で過ごすことになりました。寒さに震える皆を守ったのは、卒業式のために練習してきた、川嶋あいさんの「旅立ちの日に…」を歌う児童たちの歌声だったそうです。
 
そのエピソードを耳にした川嶋あいさんは、翌年行われた旧戸倉小学校卒業式に駆けつけ、「旅立ちの日に…」を披露されたそうです。
 
 

建物は残ったが、中学校は消えた

 


 
少し高台にある戸倉中学校にも、津波が到達し、1階部分は津波にのまれたと言います。
校庭には仮設住宅が立ち並んでいたそうですが、現在では取り壊され、グランドに戻っています。しかし、校舎には中学校ではなく、「戸倉公民館」の銘がかかっています。
東日本大震災後、さまざまな理由で被災地からは人口流出が続いています。冒頭に申し上げたとおり、南三陸町でも同様です。結果、戸倉中学校は閉鎖が決まりました。
 
「震災は、人の命だけではなく、街の命も奪っていく」
 
語り部:伊藤さんの言葉は、重たい現実を私どもに伝えます。
 
 

「防災を学ぶために、被災地を訪れる」ということ

 


 
少し個人的な話をさせてください。
 
「何故、被災地に赴くのか?」
 
ボランティアでもなく、単なる観光目的で被災地を訪れるのは、悪趣味な野次馬根性ではないのか?
実は、私の心には、常にこの後ろめたさが残っていました。
復興支援サイクリング『ツールド三陸』は、2011年から開催されていますが、私が参加したのは4年目からです。それまで、参加することをためらっていたのは、このわだかまりからでした。
現地に足を運べば、地元の方々が私どもを歓待してくれていることが分かります。その目で、被災地の今を確認することの大切さも分かります。
しかし、私の心の中には、未だに何か言いようのない罪悪感のようなものが残っているのは確かです。
 
今年の『ツールド三陸』は、震災後7年目にしてようやく開催にこぎつけた『陸前高田市まちびらきまつり』と共同開催されました。
『ツールド三陸』開会式の際、陸前高田市:戸羽太市長は、このように語っていただきました。
 
「これだけ日本各地で災害が続いています、皆さまも、いつ被災者になるか分かりません。自転車で街を走り、復興の様子を見て、皆さまも防災に対する学びを得てください」
 
南三陸ホテル観洋の語り部、伊藤さんは、生き残ることの大切さを強く訴えてくれました。
ご自身の経験を元にお聞かせいただいた言葉の数々は、私の心に強く突き刺さりました。
 
残念ながら、ここ数年、日本国内で発生している大規模災害の数は異常です。
東京に住む私は、今のところ被災していませんが、例えば明日、東京に大地震が発生し、被災者になることも考えられます。
だからこそ、来るべき災害の際にも生き残るため、東北を始めとする被災地を訪問し、防災を学ぶことが大切なのでしょう。
 
完全に心のわだかまりが溶けたとは言いませんが、今年の東北訪問は、だいぶ私の心を軽くしてくれた気がしています。
 
南三陸ホテル観洋や『ツールド三陸』に限らず、東北には防災の学びを得ることができる、さまざまな場所やイベントがあります。
皆さまもぜひ訪問し、参加し、そして防災を学び、さらに食べて、呑んで、そして楽しんで、地元産業に貢献してきてはいかがでしょうか!
 
 

参考・出典

 
<アーカイブ大震災>生きたかったら残れ (河北新報 アーカイブ大震災)
https://www.kahoku.co.jp/special/spe1168/20160213_01.html
 
川嶋あい、宮城・戸倉小学校の卒業&閉校式を兼ねたスペシャル・イベントを開催 (CD Journal)
https://www.cdjournal.com/main/news/kawashima-ai/43885
 
南三陸ホテル観洋
https://www.mkanyo.jp/
 
 
昨年撮影した、陸前高田市、南三陸町、石巻市立大川小学校、福島県浪江町の画像レポートも合わせてご覧ください。
東北の今
 
 
 
 


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