秋元通信

1964年東京オリンピックにおける輸送を振り返る

  • 2019.10.25

< 中央防波堤にある海の森水上競技場。すでにテストイベントでも利用されています。>
 
 
 
来年に控えた東京オリンピック・パラリンピック2020。
 
私ども、物流に関わる者にとって悩ましいのは、大会期間中、果たしてどのような交通規制が行われるのか?、という点です。
 
東京都では、「2020TDM対策プロジェクト」(※TDMとは、交通需要マネジメントのこと)を立ち上げ、大会期間中の交通需要をコントロールしようとしていますが、その詳しい内容は、未だ明確になっていません。
 
そもそも、私どもの場合は、お客様の希望があれば、大原則として運ばないわけにはいかないわけですから…
 
いろいろと悩ましい、オリンピック/パラリンピック期間中の物流業界ですが、今回は、前回1964年大会における輸送体制を振り返ってみましょう。
 
 

競技会場の比較

 
1964年大会の会場は、「明治オリンピック・パーク」、「駒沢オリンピック・パーク」、「代々木スポーツ・センター」の3地域に大別されます。名称は、それぞれ1964年大会当時の名称で、それぞれ現在の明治神宮外苑、駒沢公園、代々木競技場周辺にあたります。
 
選手村があったのは、現在の代々木公園の北側、現在は国立オリンピック記念青少年総合センターがある場所です。当時、ここにはワシントンハイツと呼ばれる米軍将校の宿舎がありました。この地が、1964年大会開催前に日本に返還され、それぞれ代々木競技場、渋谷公会堂、そして選手村となりました。
 
選手輸送に関しては、2020年大会とは比べ物にならないくらい狭い範囲だったわけです。
選手村からもっとも遠い駒沢エリアまでが、直線距離で6km強。
明治神宮外苑エリアまでが、2km強。
代々木エリアでも、1kmちょっとしかないわけですから。
 
 
対して、2020年大会では、大きくふたつ、「ヘリテッジゾーン」と「東京ベイゾーン」に会場は大別されます。
ヘリテッジゾーンは、オリンピックスタジアム(旧国立競技場)を中心に、西の両国国技館から、日本武道館、代々木競技場などが含まれます。
東京ベイゾーンは、お台場、有明、中央防波堤などに広がります。東京辰巳国際水泳場や有明テニスの森などの一部を除けば、ほぼすべての競技場が新設されます。
 
選手村が据えられるのは、晴海(中央区)です。
 
選手村からもっとも近い有明アーバンスポーツパーク(BMX)や有明体操競技場、有明テニスの森などでも、直線距離で2km弱。
ボートやカヌー、馬術などが行われる中央防波堤が、約6kmですが、東京ベイゾーン内の移動は運河を迂回する必要があり、実際の輸送距離はより長くなることは御存知のとおりです。
 
ヘリテッジゾーンについては、選手村から直線距離で6~7kmの場所に散在しています。
 
1964年大会と2020年大会では、競技数も大きく増えているのですが。
会場も大きく広がり、その分、輸送の課題も増えることが、たやすく予想できます。
 
 

オリンピック・パラリンピックにおける大会輸送とは?

 
大会輸送は、大きく3つに大別されます。

  • 選手やコーチ、審判など、出場関係者の輸送
  • カヌー、ボート、自転車や馬など、競技関連機材の輸送
  • 観客の輸送

これに、通常物流が加わった4つについて、大会期間中は、それぞれの調和を取りつつ、円滑な輸送を実現する必要があります。
 
 

1964年大会の輸送手段

 
1964年大会では、以下の車両が輸送のために必要とされたそうです。

  • 乗用車 24,466台
  • バス 7,382台
  • トラック 3,355台
  • ジープ 7,800台

計 43,003台
 
これは、延べ台数です。
意外と少ないと思いませんか?
 
ちなみに、ジープは自衛隊から供与されましたが、他は自動車メーカーから調達されました。
提供したのは、日野、いすず、日産、プリンス、トヨタ、新三菱の各社です(メーカ名は、報告書のまま当時のもの)。乗用車:370台、マイクロバス:60台の総計:430台が提供されました。
なお、先の述べ台数については、これらの調達車両の他に、チャーター車両が含まれています。大型バスなどは、すべてチャーターで運行したようです。
 
各車両の役目もご紹介しましょう。
 
・乗用車
総数180台を、各国選手団に対し、選手団の人数を按分して配分されました。
用途は「連絡用」とありますが、競技会場への往来には、主に競技会場間を運行する定期運行バスが用いられたようです。
 
・ジープ
各国選手団の団長用として、各国に1台づつ提供されました。
 
ちなみに、選手は、会場との往来の他、羽田空港(※当時は成田空港はまだありませんでしたから)や、練習会場、開会式、閉会式、その他公式レセプションへ移動する必要がありました。
各競技会場、練習会場へは、直行バスと巡回バスが定期運行されました。
 
ただし、これらのバスも一般道を走るわけですから、渋滞にハマる可能性があります。
そのため、渋滞が予想される路線では、白バイが先導して時間通りの運行を実現したそうです。
 
ちなみに、白バイが遅刻しそうな選手を会場に送り届けるために、緊急出動したケースは、43件あったと、当時の報告書に記載されています。
中には、競技用具やユニフォームを忘れ、あわてて選手村に取りに戻った選手や、ある競技(※競技名は記録がありませんが、ボクシングでしょうか?)では計量に時間がかかり、出場選手全員が遅刻しそうになったこともあったそうです。
 
 

1964年大会における輸送概要

 
では、当時の報告書に残る、1964年大会における輸送の概要をお届けしましょう。
 
1964年大会の公認輸送人(※報告書によっては、「公認輸送取扱人」という表現も存在します)として指名されたのは、日通でした。公認輸送取扱人は、馬術で活躍する馬を中心に、競技機材全般の輸送を担当したと記録されています。
 
なお、日通では、副社長をトップとする組織が設けられ、羽田空港、横浜港などの複数の支店に人員を配置しました。
 
輸送の中枢を担う本部は、選手村に開設、その他、選手が宿泊するホテルや、羽田空港や横浜港などにも輸送センターが開設されました。
輸送本部は、組織委員会29名の他、日通、タクシー会社やバス会社から派遣された臨時職員44名、通訳9名、大学生の応援(※今で言うボランティア?)49名の、計131名が所属していました。
また、陸上自衛隊からも輸送支援があったことが記録されています。
 
輸送計画には、通関業務の段取りも含まれます。
代々木選手村、羽田空港内に、大会関係者および競技機材等のための建屋を用意した他、戸田漕艇場(ボート)、相模湖競艇場(カヌー)、江ノ島ヨットハーバー、馬事公苑、軽井沢総合馬術競技場において、現地で通関検疫が実施できるように法定手続きが行われました。
 
ちなみに、スイスから来た馬がインフルエンザに罹患していることが発覚、横浜に数日間留め置かれたなんて記録も残っています。実はこの馬、スイスを出発する前にインフルエンザにかかっていたことが分かっていたそう。
馬も病気しながらの長旅、大変だったでしょう。
 
当時輸送計画立案時に想定された、1964年大会関係者の内訳は、以下でした。

  • 選手村居住の選手、役員:7,684名
  • プレスハウス居住の報道関係者:1,300名
  • ホテル宿泊の役員等:2,300名

合計11,284名
 
ちなみに、2020年大会では、約9万人の大会関係者、約27万人の大会スタッフ、そして約1010万人の観客が見込まれています。
 
この数値からも、大会規模の違いがはっきりと分かります。
 
 

大会輸送の立役者たち

 
大会輸送の立役者たちの功績を、当時の公式報告書『オリンピック東京大会資料集』(1965年発行、オリンピック東京大会組織委員会)から、引用しましょう。
 
報告書中にて、筆頭に挙げられているのが自衛隊の活躍です。
輸送には、867名の隊員が参加しました。
「その実施成果は、過去のオリンピック大会には見られない完璧な業績であった」と絶賛されています。
 
対して、バス会社、タクシー会社などから派遣された方々に対する評価は、微妙です。
報告書中では、管理職の人は立派であったと書かれていますが、それ以外の方は、問題があったようです。
 
「ハードワークに対して不平や苦情で職員を手こずらせた。考え方のあまりにはなはだしい1人を交替してもらった」なんて書かれています。
いつの時代も同じですね。
 
さらに興味深いエピソードがあります。
ある会社の幹部から、人使いの荒さに不満を言われた報告書の筆者は、このようなやりとりをしたそうです。
 

「『組織委員会のやり方は、労働基準法も何もなっていない、人使いが荒い』意味の話しがあったので、『雇用関係ではなく、オリンピックのための同志的結合だから嫌な人は引き取って欲しい」むね当方も雑談まじりに応酬してやった」

 
時代ですね。
今…、と言うか、もし2020年大会で、組織委員会の誰かがこんなことをTwitterなんぞでつぶやいた日には、大炎上必至です。
 
多く人々はハードワークに負けず、深夜早朝の業務もいとわず、1964年大会成功のために尽力したと記されています。
これはあくまで輸送関係者を対象とした報告書からの抜粋ですが、おそらくは大会関係者の多くが、同様であったと思います。
 
最後に、『オリンピック東京大会資料集』の輸送に関する項の枕文をご紹介しましょう。
 

『輸送は元来手段であるし、第2次的役務でしかないので、大会終了と同時に日々苦心して積み重ねた作業のあとが、陽の目をみずに葬り去られるのは忍びないものがある。これを成功させたのは、周到な企画と完璧な活動がもたらした成果と云い得るであろう。
そこで。東京大会を立派に成功させようと決意した多くの人の努力が惜しみなく注がれた足跡を幾分かでも記録に残したいと思う』

 
1964年にも、物流の担い手として、影からオリンピックを支えた方々がいたわけです。
 
今も昔も物流人のプライドは、変わらないのかも知れませんね。
 
 
 

参考文献
  • 『Official handbook to Tokyo Olympics』
    オリンピック東京大会組織委員会  (1964)
  • 『オリンピック東京大会資料集』
    オリンピック東京大会組織委員会 (1965)
  • 『オリンピック競技大会報告書 第18回(1964年 東京)』
    日本体育協会 (1965)

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