秋元通信

「負の感情」の心理学

  • 2020.6.23

ある女性の話です。
 
彼女は、私とは別の部署に在籍、その部署の扱うITサービスについて、広報兼営業のような仕事をしていました。
 
しかし、まあ…
はっきりと言えば、彼女には、その仕事は向いていなかったと思います。特に、広報的な仕事の方ですね。
 
同部署では、四半期に一度程度の頻度で、件のITサービスに関する商品説明セミナーを行っておりました。その際、彼女は登壇し、スピーカーとして、お客様の前でプレゼンテーションを行います。
 
毎回毎回、セミナーのために、彼女は異常な回数のリハーサルを重ねていました。
私も、情報交流会など、人前で話す場合には、念入りにリハーサルを繰り返します。と言っても、私の場合は、8回程度。しかし彼女は、50回以上もリハーサルを行うのです。
 
セミナーが1時間として、50回リハーサルを行うと、単純に50時間必要になります。
通常の業務もこなしながら、セミナーの時期になると50時間以上の業務がプラスオンされるわけです。当然、昼間だけでは仕事が終わりません。毎日、深夜まで残業をすることになります。
 
セミナーの当日のこと。
出社すると、フラフラになった彼女がいます。聞くと、徹夜でリハーサルを行っていたそうです。目の下にくまを作り、ろれつも回らなくなっています。
当然、その日のセミナーは、お世辞にも褒められたものではありませんでした。
 
 
自信がないんですね、彼女には。
はためには、彼女のプレゼンテーションはそれほど悪くない…、というか、むしろ中の上レベルでした。それでも、彼女自身は、自分のプレゼンテーションをダメだと思い込み、毎回毎回異常な回数のリハーサルを繰り返します。
 
ある時、彼女のリハーサルに付き合い、私なりにアドバイスをしたことがあります。
 

「君のプレゼンは、決して悪くないよ。むしろうまい方だと思う。だから、自信を持って!」

 
そう元気づけた(つもりの)私に対し、彼女はこう言いました。
 

「あなたは最初からプレゼンが上手だから。才能のない私の気持ちがわかるはずがありません」

 
率直に言えば、カチンときました。
私だって、先輩などにダメ出しをされながら、プレゼンのスキルを磨いてきたわけです。
 
…という、私の中に生まれた負の感情によって、私は彼女に関わることを避けるようになりました。もともと、違う部署の人であり、私がしゃしゃり出る筋でなかったのも確かですが。
 
 
やがて、セミナーが決まると、彼女は会社を休むようになりました。
マジメな彼女ですから、ズル休みではなく、きっと鬱のような状態になり、出社したくとも出社できなくなったのでしょう。
そして、彼女は会社を退社しました。
 
 
負の感情は、仕事、私生活の両面で悪影響を及ぼします。
今回は、実力発揮を妨げる負の感情を研究する心理学をご紹介しましょう。
 
 
 

自分の能力を信じることができない、「インポスター体験」とは

 
学生の頃、試験前になると「試験勉強、やってないんだよ…」という友人がいませんでしたか。
また、その結果、良い成績を上げたとして、「ほんとに勉強なんてあまりしてないんだよ」と言い張る人もいたのではないでしょうか。
 
こういった人の中には、謙遜や見栄ではなく、心の底から、このように思っている人がいます。
自分が得た成功や評価を、自分自身の努力や実力、才能によるものではなく、「たまたま」運良く手にした結果であり、自分自身は、偽りの結果を、周囲の人を騙して手に入れた詐欺師であると考えています。
 
こういった精神現象を、インポスター体験と呼びます。
インポスター体験にある人は、「自分は周りを騙している」、さらには「いつかこの嘘の仮面が剥がれるのでは??」という強迫観念に駆られることがあります。結果、仮面に自らを追いつかせる目的で、異常な努力を費やすようになり、日常生活に支障をきたすケースもあります。
 
インポスター体験(もしくは「現象」)は、アメリカ/ジョージア州の心理学者であるポーリン・R・クランスとスザンヌ・A・アイムスによって命名されました。
ふたりは、学生たちと話すうちに、優秀な成績を挙げている学生の多くが、こんなことを考えていることに気が付きました。

  • 自分は、本来この学校に通うことができるような人間ではない。
  • 自分は、周囲の人たちを欺いて、どうにか現在のポジションを得ている。
  • 自分は、「頭が良くて、有能だ」と、周囲の人たちを思い込ませているだけだ。

実際には、彼ら彼女らは、優秀な成績をあげ、クラスメートや先生などからの信頼を得ています。決して、分不相応な評価を、不当な方法で得ているわけではないのです。
 
ちなみに、クランスとアイムスは、インポスター体験について発表した1979年の論文で、これを「症候群」とか「疾患」と呼ばないように呼びかけています。
 
その理由として、クランスは、このように述べています。
 
「それ(インポスター体験)は、症候群や精神障害ではなく、誰もが経験するものだからだ」
 
インポスター体験は、精神疾患とはみなされていません。
多くの人が、多かれ少なかれ、経験するものだからです。
 
しかし、冒頭に挙げた女性の例のように、重度のインポスター体験は、明らかにその当人の人生を蝕みます。
 
精神疾患とみなさないことで、当人たちの心の負担を軽くしようという、心理学者の意図も分かるのですが。病気のひとつとみなすことで、きちんとした治療を受けることができるようにすることも大切な気もします。
 
このあたりは、難しいですね。
 
 
 

集団を蝕む、「ステレオタイプ脅威」

 
インポスター体験は、個人の思い込みが、負の感情をもたらす精神現象でした。
次に、集団に影響を与える「負の思い込み」をご紹介しましょう。
 
2007年にシカゴ大学である実験が行われました。
 

「男性は、女性よりも数学的能力がずっと高い」

 
この固定観念を意識させた場合と、意識させなかった場合に分けて、数学のテストを行った場合、意識させられた集団では、複雑な数学問題における女性の正答率が下がったというのです。
 
ステレオタイプ(Stereotype)とは、先入観、思い込み、固定概念や偏見など、類型化された観念を指す言葉です。
 
ステレオタイプ脅威とは、負の評価である偏見や思い込みが、本来の実力を損ない、結果を出せなくなってしまうことを指します。
 
いろいろなケースが考えられますね。
 

「うちのチームは、万年予選落ちだから…」
 → 負け続けているスポーツチームのケース。

 

「女性ゴルファーは、男性ゴルファーよりもパットが下手だ」
 → プロでも、これを意識してしまうと、パットを外すことが多くなるそうです。

 
ステレオタイプ脅威の原因は、負の思い込みが、脳の一部を専有するために発生すると考えられています。
例えばパソコンでも、重たい(メモリを沢山消費する)常駐ソフトを稼働させると、パフォーマンスが下がりますよね。
あれと同じく、負の思い込みが、「ワーキングメモリー」(作業記憶)を余計に消費し、十分なパフォーマンスが発揮されないという現象が、脳内でも発生するというのです。
 
2005年にイタリアのパドヴァ大学で行われた実験でも、「女性は男性よりも数学が苦手だ」という固定観念を意識させた上で、女性に数学の課題に取り組んでもらいました。
すると彼女たちは、「この問題は私には難しすぎる」「私は数学が苦手だ」といった負の考えが、何度も頭に浮かんだと答えています。
 
ただし、ステレオタイプ脅威は、プラスにも働きます。
ポジティブな思い込みは、ポジティブな結果を呼ぶのです。
 
1999年、ハーバード大学で、アジア系女性を対象に行われた実験です。
 

      自分が女性である。

    → 固定観念では、「男性に比べて数学が苦手」であるとされる。
     

      自分がアジア人である。

    → 固定観念では、「他民族よりも数学が得意」とされる。

 
いずれかを意識しながら数学の課題に取り組んだ結果、「自分が女性である」ことを意識したグループでは成績が下がったものの、「自分がアジア人である」ことを意識した場合、成績が上がったのです。
 
悪い固定観念を持てば、パフォーマンスが下がること。
良い固定観念を持てば、パフォーマンスが上がること。
 
なんとなく、納得できるような気がしませんか。
ただし、後者(良い固定観念を持てば、パフォーマンスが上がること)については、その理由が判然としないそうなんだとか。
確かに、先にご説明した「脳のワーキングメモリ」説では、固定観念の存在そのものが課題であって、内容の良し悪しは問われないはずですから。
 
 
 

人の意識は、根性論だけではコントロールできない

 
古来から人間は、精神の高みを目指す「修行」という概念を持っていました。
洋の東西を問わず、宗教では求道者と呼ばれる人たちが、肉体的にも過酷な修業をすることで、精神の高みを得ようとしてきました。
 
人々の中には、心が強い人、弱い人がいて、心の弱い人は、誤解を恐れずに言えば、劣等であるという考え方は、多くの文化圏で見受けられます。
 
しかし、心理学や医療が発展するにつれて、人の心は、自分ではコントロールし難い外部要因に左右されることが分かってきました。
 
以前お届けした、『腸内細菌が、うつをもたらす??』では、脳腸相関という現象をご紹介しました。
緊張しすぎるとお腹が痛くなる経験がある方もいらっしゃると思います。同様に、ある種の腸内細菌が、うつ病の原因になることが分かってきたのです。
 
冒頭に挙げた女性のエピソードに戻りましょう。
はっきりと言えば、私は彼女のことを「救えないな」と思っていました。人の助言も聞かず、自意識過剰な人だな、と思っていたわけです。
 
もし、当時の私が、インポスター体験を知っていれば、もう少し、彼女に何かをできた可能性があります。少なくとも、もうちょっと優しく接することができたでしょう。
 
ある調査では、7割の人が何かしらのインポスター体験を経験したことがあるという結果が出ました。程度の強弱はあれど、インポスター体験は、対岸の火事ではないのです。
 
インポスター体験に対する効果的な対処法は見つかっていません。
経験者同士が、自分が経験したインポスター体験を告白し合う、グループセッションの実施には、ある程度の効果が見られるそうですが。グループセッションそのものは、さまざまな心療リハビリで用いられる、一般的な手法ですし。
 
ちなみに、インポスター体験は、女性に多いとも言われます(性差はない、という研究もあることも、付記しておきます)。
そういった方に出会った場合に、私が、かつてしてしまったように、「困った人だな」と突き放すのではなく、「この人は、インポスター体験なのかもしれない」と思うことで、お互いに優しい結果を導くこともできるかもしれません。
 
そんなときのために、この記事が参考になれば幸いです。
 
 
 
 

出典

 
別冊日経サイエンス 成功と失敗の脳科学 (出版 2012年5月22日)
 
あなたの実力を半減させる『ステレオタイプ脅威』に、陥っていない?」 (STUDY HACKER)
 
インポスター症候群 (Wikipedia)
 
 


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