秋元通信

今注目される、流域治水とは 【大人の自由研究】

  • 2020.8.19

筆者は、10歳から社会人になるまで、茨城県藤代町(※現在は、取手市に編入合併)に住んでいました。父の転勤で大阪から千葉県柏市に引っ越したのが9歳の時。翌年には、藤代町の新興住宅地に引っ越したのですが。
 
藤代町に引っ越した翌年、藤代町を囲むように流れる小貝川の堤防が決壊、氾濫したのです。幸い(と言うと、被害にあった方に失礼ですが…)氾濫したのは、私の自宅とは反対側でした。
実は小貝川は、過去何度も氾濫し、水害を起こしている暴れ川です。私が15歳のときにも氾濫を起こしています。
両親は、そんなことはまったく知らず、新築一戸建てを購入してしまったのです。
 
10歳のときの水害後、藤代町は、町内の電柱各所に、過去の水害による浸水の高さを示す標識を貼付しました。自宅前の電柱に貼られた標識は、2階の床部分を超えていました。
 
やっちゃったなぁ…
標識を見て、つぶやいた父の姿に、子供ながらに「自分が家を買う時は、気をつけよう!」と思ったことを覚えています。
 
 
ここ数年、前例のない豪雨が降り、日本各地に被害をもたらしています。
旧来の水害対策は、台風などがもたらす大量の雨水による増水を河川の内側(河道内)で抑え込み、下流へ、そして海へと、排出していくことが基本でした。したがって、河川が持つ水を流すキャパシティをアップさせることが重要であり、そのために、川床の浚渫や、スーパー堤防などに代表される、強くて壊れない堤防を作り上げてきました。
 
しかし、近年では、流域治水という考え方がフォーカスされています。
 
本記事では、大人の自由研究として、小貝川の歴史にふれながら、流域治水についてご紹介しましょう。
 
 
 

利根川は人工的に作られた

 
本記事で登場する河川について、その位置関係を確認しておきましょう。
 
利根川は、群馬県みなかみ町に水源とし、千葉県銚子市で太平洋に注ぎます。
小貝川は、茨城県取手市と利根町の市境で利根川に合流します。
また、小貝川と深い関係にある鬼怒川は、利根川~小貝川の合流部17kmほど上流で、利根川に合流しています。小貝川と鬼怒川は、ともに栃木県内に源流を持ち、栃木~茨城を北から南へ、並行するように流れ、利根川に合流します。
 
 
意外と知らない人も多いのですが、利根川は、人工的に作られた河川です。
利根川は、もともと東京湾に注いでいました。
江戸時代初期に実施された、利根川東遷事業によって、利根川は、東に大きく流れを変えられ、銚子にて太平洋に注ぐようになったのです。
 
利根川東遷事業に関して、触れ始めると、それこそ沼のように深く、それだけで記事を2本も3本も書くボリュームになってしまいますので。ここでは、今回のテーマを踏まえ、関係するポイントだけを列記します。
 
 

  • 有史以前、利根川は現在の荒川と同じ流路をたどっていたが、江戸時代以前には、利根川は渡良瀬川と並行するように流れ、東京湾へ注いでいた。
  • 江戸時代以前の関東平野では、北から南へ、複数の河川が流れており、複雑に合流や分流を繰り返していた。例えば、利根川の場合、現在の埼玉北部では、荒川や綾瀬川と合流・分流を、加須市以南では、現在の古利根川、中川、隅田川の流路をたどっていたと考えられる。
  • 徳川家康は江戸城に入城後、伊奈忠次に命じ、関東平野の河川改修にあたらせた。以降、伊奈家は3代にわたり、利根川を始めとする関東主要河川の整備にあたる。
  • 利根川が、銚子において太平洋に注ぐように河川改修されたのは、1654年。

 
利根川東遷事業が行われた目的のひとつは、現在の茨城県県南部から千葉県印旛沼付近あたりにおける、農業用地開拓であったとされます。
また、利根川だけでなく、荒川、江戸川、隅田川など、江戸周辺の河川を整備することで、江戸に結ぶ水運用水路を整備する目的もあったとされます。
 
 
利根川東遷事業以前、小貝川は、鬼怒川に合流していました。
しかし、茨城県県南部の農地開拓に伴い、鬼怒川と分離、新たな流路を掘削し、現在の形になったのです。
 
 
 

なぜ、小貝川で氾濫が頻発したのか?

 

利根川と小貝川の合流部

 
小貝川は、何度も水害を繰り返してきました。
昭和期だけをピックアップしても、昭和10年、13年、16年、25年、33年、41年、56年、61年と8回も氾濫、堤防の破堤を起こしています。
 
藤代町に筆者が住んでいた当時、台風が来るたび、各TV局が小貝川の様子を報道していました。「決壊するなよ…」、祈るような、うんざりするような気分で、ニュース番組を観ていたことを思い出します。
 
なぜ、小貝川は、何度も氾濫を繰り返してきたのか。
ポイントは、利根川との合流部にあります。
 
取手市と利根町の境にある、小貝川と利根川の合流部を見ると、合流部の両側に、丘が迫っていることに気が付きます。繰り返しになりますが、小貝川下流部は、人工的に作られた流路です。実は、小貝川は、わざわざ丘を切り拓き、利根川に合流するように作られました。
 
しかも、切り拓いた丘の幅は十分ではありません。合流部の河川幅は狭く作られているのです。この河川狭窄部が、河の流れを阻害するため、台風など、大量の降水によって、河川の流量が著しく増えると、合流部の数キロ上流で破堤、もしくは氾濫を起こしてきたのです。
 
さらに言えば。
利根川にも狭窄部が存在します。小貝川との合流部から下流へわずか2kmほど、我孫子市布佐付近の利根川に、問題の狭窄部が存在します。流量の多い利根川で狭窄部があれば、降雨時、当然その付近の水位は上がります。小貝川に逆流することもあるでしょうし、同地における過去の水害では、利根川から小貝川への逆流が確認されています。
 
三度繰り返しますが、利根川と小貝川は、ともに人の手によって流路を付け替えられた河川です。
狭窄部を避けることもできたはずです。
洪水の原因となる狭窄部を、なぜわざわざ設けたのでしょうか。わざわざ丘を切り拓いてまで、なぜわざわざ狭窄部を作り出したのでしょうか?
 
実は、「小貝川はなぜ水害を何度も起こしているのか」というテーマで、私は高校時代、レポートを作成したことがあります。そのときに調べた古い文献では、小貝川~利根川合流部に近い、取手市、利根町、龍ケ崎市付近は、遊水地として計画されたと明記されていた記憶があります。残念ながら、本記事執筆にあたり、その文献を探したものの、見つけられなかったのですが。
 
しかし、文献によらずとも、この河川設計から考えて、小貝川が氾濫するように、利根川、小貝川の瀬替えが設計されたことは、間違いがないのではないでしょうか。
 
1938年(昭和13年)の水害後、建設省(当時)は、小貝川の流路変更を計画しました。利根川との合流部を安全な場所に付け替えることを考えたわけです。しかし、流路変更を行えば、多くの農地が潰れます。結局、地主たちの反対により、この計画は頓挫しました。
 
結果、同地における農地以外の土地利用は加速し、新興住宅地が次々と建設されています。
余談ですが、昭和56年の水害発生後、旧藤代町付近の土地価格は下落し、一時、国内最大の下落率を記録しました。父は落ち込んでいましたね…
 
 
 

注目される「流域治水」とは

 
昨今、頻発する豪雨は、私たちがこれまで経験してこなかったものです。
ネットで、「日本は熱帯雨林気候になったのか??」という書き込みを見つけましたが、そう思ってしまうくらい、ここ数年の豪雨は桁外れです。
 
河川において、「堤防を作る」という水害対策は、台風、豪雨などによる増水を、河川の中(河道)に抑え込もうという発想です。主要な河川には、計画高水位が設けられています。堤防は、計画高水位以下の増水を、安全に流し切ることを前提に、設計、建築されています。
ところが、そもそも計画高水位以上の増水があった場合には、どうなるのでしょう?
計画高水位:5mの河川において、水位:7mの増水があれば、堤防は耐えきれない可能性が高いです。
 
「じゃあ、計画高水位を上げればいいのでは?」
 
確かにそうなんですが。でも、これって、いたちごっこですよね。きりがないです。
さらに言えば、計画高水位を上げて、それでも氾濫や破堤が発生した場合には、周辺への被害は、より大きくなります。
 
河道内に、増水を抑え込もうという発想をエスカレートさせることは危険ではないのか?
流域治水では、このように考えます。
 
流域治水とは、増水を河道から計画的にあふれさせて制御する、いわば「あふれた水を横に広げる」治水です。
河道に抑え込む水害対策では、流下能力の向上を目指し、川床からの土砂掘削や堤防の整備・強化を行います。
対して、流域治水では、遊水、貯留機能の向上や、土地利用の見直しも含めて行います。
 
 
 

流域治水における、遊水、貯留機能の向上とは
  • ダムによる洪水調節機能の強化
  • 遊水地の整備
  • 霞堤の整備や活用

 
利根川にも、渡良瀬遊水地という、巨大な遊水地があります。
以前、秋元通信でも、写真とともにご紹介した『首都圏外郭放水路』(通称、龍Q館)は、地下に設けられた、巨大な遊水地です。
 
『地下大空間へのいざない』
 
 
東京都内でも、内水氾濫(下水道や側溝などで排水しきれなくなった雨水が起こす氾濫)を防ぐため、環七の地下に、巨大な遊水地が建設中です。
 
また、霞堤は、あえて不連続な堤防を設けることで、水を逃し、また豪流の勢いを弱める機能を持ちます。
霞堤は、上空から見ると、「ハ」の字をした堤防が河川にそって整備されます。「ハ」の字が重なるように、複数の霞堤が用意されます。「ハ」の字をした霞堤の外側には、さらに別の堤防が設けられています。内側の霞堤と、外側の堤防の間にある遊水地に、増水を計画的にあふれさせることで、被害を最小限に抑えるわけです。
 
 
 

流域治水における、土地利用の見直しとは

 
かんたんに言えば、水をあふれさせる場所では、水没しても被害が少ない土地利用しか行わないということです。
住宅のかさ上げ、高台への移転などが該当します。
 
ただし、ここで忘れてはならないことがあります。
 
流域治水では、増水を計画的にあふれさせます。
あふれさせる場所は、荒れ地として放置されるとは限りません。公園や農地などとして利用されるケースが多くあります。
 
つまり、被害がゼロではないわけです。
 
 
 

市区町村別の治水から、流域地域全体を診た治水へ

 
下流の街にある、住宅地や工業地域を守るために、上流の農地は犠牲になっても良いのでしょうか?
良いわけがありません。遊水地であることを前提に、そこに農地を設けたにしても、いざ遊水地として機能し、農地が水没した際には、適切な補償があるべきです。そして、その補償は、遊水地を管轄する市区町村だけが負担するのではなく、流域全体の市区町村で負担すべきでしょう。
 
これは、道義だけの問題だけではなく、そうしないと流域治水そのものが成立しないからです。
 
河川行政は、各市区町村に委ねられている部分と、国が管轄する部分が複雑に入り組んでいます。そして、流域治水を行うためには、増水時には被害をうける地権者の協力が欠かせません。
 
前半に述べてきた、小貝川の水害は、もとを辿れば、流域治水の考え方に基づいて設計された河川であり、農地であったはずなのに、当初の思想を忘れ、住宅などを建ててしまったことに所以します。
 
なにごとにおいても、初期のビジョンや戦略を踏襲、もしくは振り返るというのは、大切なのです。
 
さて、今回は、大人の自由研究として、いつもの秋元通信とは、少し毛色の違った記事をお届けしました。
楽しんでいただけましたでしょうか?
 
また機会があれば、大人の自由研究をお届けしましょう。
 
 
 
 

参考およぶ出典

 


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