秋元通信

詭弁に惑わされないために 【後編】

  • 2020.11.27

砂山のパラドックスという思考実験をご紹介しましょう。
 
あなたの目の前に、砂山があります。
その砂山から、一粒だけ、砂粒を右隣に移します。移された砂粒は、あくまで砂粒であって、砂山ではありません。
 
砂粒をひとつづつ、隣に移すという作業を繰り返したとします。
やがて、左にあった、元の砂山がなくなり、代わって右側に砂山ができているはずです。
 
ここで考えてください。
左にあった砂山が、砂山から砂粒に変わった瞬間は、いつでしょう?
右にあった砂粒が、砂山になった瞬間は、いつでしょう?
 
砂10粒が集まれば、砂山ですか?
砂1,000粒が集まれば、砂山ですか?
 
では、マイナス1,000粒された砂山は、もはや砂山ではないのでしょうか?
 
 
私たちは、周囲にある情報を、きちんと把握し、正確に認知していると思いがちです。
しかし、実は私たちが把握している認知は、私たちが思っているほど、強固なものでも、しっかりとした基準に基づいたものでもないのです。
 
『詭弁に惑わされないために』後編では、人間が持つ認知処理の限界から、詭弁に対処する方法を考えていきましょう。
 
 
 

私たちの認知を司る、自動的処理と制御的処理

 
私たちは、砂場にあるこんもりとした塊を見た時に、どうやって「これは砂山だ」と判断するのでしょうか。
少なくとも、砂の塊を観察し、「これは10万粒の砂が集まっているから砂山だ」などと判断しているわけではありません。
 
私たちが、日常的に下す認知の多くは、熟考することなく、反射的に行われています。これを、自動的処理と呼びます。
例えば、自動車の運転を行う時、私たちは自動的処理を行い続けます。
自動車運転では、経験に基づき、外界からの情報を自動的処理で認知し続けることで、スムーズかつ安全に、自動車をコントロールできるのです。
 
「あのカーブは、半径*mのカーブだから、スピードを*km/hまで減速する必要がある」なんて、常に考え続けて運転している人はいないでしょう。
 
 
対して、例えば稟議申請があなたの元に回ってきた際には、あなたはきっと稟議書をつぶさに読み、内容に論理的な破綻等の問題が見受けられないか、じっくりと検討するはずです。
こういった処理を、制御的処理と呼びます。
 
気をつけなければならないのは、人が行う認知処理(社会的情報処理)のデフォルトは、自動的処理だということです。もし仮に、生活のあらゆるシーンで制御的処理を行っていたら、疲れてしまいます。自動車運転時に制御的処理のような、時間の掛かる認知を行っていたら、生命の危機にも繋がりかねません。
 
 
人は、例えば議論を続けているときですら、十分に認知能力を働かせ、状況を把握し続けているわけではありません。砂山が砂山であることを、「なんとなく」認知するように、相手の主張、自分の主張を(言葉は悪いですけれども)なんとなく認知し続けることで、議論を進めています。
 
だからこそ、相手が詭弁を弄してきても、相手の詭弁に気が付かず、知らず知らずのうちに、相手の誤った論法の罠にはまってしまうのです。
 
「何かがおかしいのは分かるけど、どこがおかしいのか、うまく説明ができない」
 
これは、人の認知処理に限界があるがゆえに、発生するのです。
では、詭弁に気づき、もしくは対処するためには、どうしたら良いのでしょうか。
 
 
 

「何を議論しているのか? 何のために議論をしているのか?」

 
これは、詭弁に対抗する、基本中の基本です。
本記事前編でご紹介した、以下エピソードを振り返りましょう。

ある家が、「ここで犬にウンチをさせないでください」と看板を掲げていたとします。ある日、看板の前で、ウンチをしている犬と、その飼主を見つけました。
 
「そこでウンチをさせないでください」、注意する家主に対し、飼い主は、このように反論しました。
 
「犬に日本語が読めるわけないだろう!」

 
家主側は、犬が日本語を読むことができるかどうかを議論したいのではなく、自宅前にウンチをされること(放置されること)が嫌であることを主張したいはずです。
だったら、相手の詭弁に踊らされることなく、自分の主張を貫けば良いのです。
 
また、「何のために議論しているのか?」、つまりは議論の着地点が、どこにあるのかを、議論の最中に再確認することも有効な対抗手段のひとつです。
詭弁によって論点がずらされているケースもあれば、単純に双方熱くなってしまい、相互理解を導く議論ではなく、相手を打ち負かすための議論になるケースもあるでしょう。
 
「何を議論しているのか? 何のために議論をしているのか?」は、迷路に迷い込んだ議論をリセットし、正常な議論に戻す効果があります。
 
 
 

三段論法の論理的破綻を見抜く

 

  1. 人は、哺乳類である。
  2. 私は、人である。
  3. したがって、私は哺乳類である。

 
これが、三段論法です。
1.にあたるものを、大前提。
2.にあたるものを、小前提。
3.が結論であり、1.と2.から3.を導く論理の道筋を論証と言います。
 
多くの詭弁では、意図的であるか、無意識であるかは別として、大前提、小前提、論証のいずれかに破綻が見受けられます。
 

  1. すべての人は、哺乳類である。
  2. 犬は、哺乳類である。
  3. したがって、犬は人である。

 
これは、論証が誤っているケースです。
 
大前提が間違っているケースも例示しましょう。
 

  1. 人は、爬虫類である。
  2. 私は、人である。
  3. したがって、私は爬虫類である。

 
この例では、大前提が間違っていることは明白です。
しかし、実際に議論が行われるケースでは、大前提、小前提といった議論が間違っていることに、意外と気が付かないものです。前編でご紹介した、以下のエピソードを考えましょう。
 

エピソード
「うちの社員だったら、仮にお客様が悪くても、『悪いのはお客様です』なんて絶対に言わないぞ!
それを堂々と主張するなんて、貴様の会社の社員教育は、そもそも間違っているに違いない。
そんな社員教育をしている会社だから、こんな大問題に発展したんだ!!」

 

  1. 大前提
    「うちの社員だったら、仮にお客様が悪くても、『悪いのはお客様です』なんて絶対に言わないぞ!」
  2.  

  3. 小前提
    「それを堂々と主張するなんて、貴様の会社の社員教育は、そもそも間違っているに違いない」
  4.  

  5. 結論
    「そんな社員教育をしている会社だから、こんな大問題に発展したんだ!!」

 
大前提(1.)では、「悪いのはお客様です」、つまりお客様の責任を指摘する行為を、間違いであると断じています。さらに、「うちの社員だったら」と前置きをすることで、相手の行為が間違いであることを強調しています。
 
小前提(2.)では、ひとりの社員が発したに過ぎない主張を、会社全体の教育制度にスケールアップし、すり替えています。
 
このケースでは、大前提、小前提それぞれに、それぞれ独立した詭弁が含まれています。
さらに、論証にも問題があります。
なぜならば、社員教育の質と、「大問題に発展した」ことに、直接的な因果関係はない(※少なくとも、証明することは困難)からです。
 
このケースでは、相手側は、言わば詭弁に詭弁を重ねています。
その結果、詭弁の正体がわかりにくくなってしまいました。
 
 
相手が詭弁によって議論を自分が有利になる方向に導こうとするのであれば、まず相手の詭弁、つまり論理の破綻を把握することです。
相手の詭弁に足をすくわれることなく議論を収束に導く手がかりを見つけるためには、まず詭弁の正体を見抜くことで、議論の現状を冷静に客観視することから始まります。
 
 
 

詭弁に対処する方法は、なぜ必要なのか?

 
さて、ここまでは、詭弁のロジックを知り、詭弁の論理的破綻を見抜く方法を考えてきました。
ですが、勘違いしてはいけませんよ!
本記事の目的は、詭弁を弄する人を打ち負かすことではありません。
論理的に詭弁を指摘(もしくは証明)すれば、相手に対し、精神的に優位に立つことができるかもしれません。さらに言えば、議論の敗者であることを相手に悟らせることもできるかもしれません。
でも、相手を打ち負かすことを目的にしちゃダメなんですよ。
 
ディベートのように、ゲームとして、議論の技術を競いあうのであれば別ですが。
日常生活、もしくはビジネスの場における議論とは、相手を打ち負かし、勝利を得るためではないはずです。対立してしまった課題に対し、お互いの妥協点を探し、よりよい関係を継続するために行われるはずです。もし、相手との関係を破綻させても良いのであれば、裁判に持ち込めばよいのです。
 
相手の未熟さ(とあえて言い切りましょう)には目をつむり、詭弁は適当にあしらうこと。
でも、お互いの間に存在する、課題の解決方法については、まっとうな妥協点を探すこと。
 
そのためには、わざと議論に負けてあげることも、お互いのよりよい関係を築くための選択肢のひとつとなるでしょう。
 
「試合に負けて勝負に勝つ」なんて言葉もあります。議論に熱くなると、ついついプライドも絡んで感情的になりがちですが、相手に花を持たせて、実のある結果を求めるのも、大人の作法ではないでしょうか。
 
 
ちなみに、前編でご紹介したエピソードにて、「うちの社員だったら、仮にお客様が悪くても、『悪いのはお客様です』なんて絶対に言わないぞ!」と激怒した役員さんですが。
 
熱い議論はあったものの、結果プロジェクトは成功し、アプリケーションは完成しました。
その後も、件の役員さんと仕事でご一緒するケースはあったのですが、少し…、と言うか、だいぶ私には優しく接してくださるようになりました。
 
仮にも、役員にまでなるような方です。
多少、人格に癖はあっても、診るべきものは、きちんと診ることができる方だったのでしょう。
 
 
 
 

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