筆者は先日、ある運送会社のDX事例を紹介する記事を執筆しました。
この会社は数年前、数千万円を投じてフルスクラッチ(※既存のパッケージなどに頼らず、ゼロからシステムを開発すること)でTMS(Transportation Management System/輸送管理システム)を構築しました。しかし、このTMSは現場から「使いづらい」と不評で、またビジネスの変化にも対応できずに塩漬けになってしまったのです。
記事の本旨は、その手痛い失敗を教訓として最終的にDXを成功させたプロセスを紹介することにありました。しかしこの記事について、SNSを中心に「数千万円の投資失敗」という部分に、多くの反応が寄せられました。
「そんな無駄な投資に数千万円も使うくらいなら、従業員に配った方がよほど良い」
このような考え方をする人は、決して少なくありません。「成功するか不明なイノベーションより、確実な従業員への分配を」という考え方です。特に投資が失敗に終わった後では、この声は強い批判となって現れます。
果たして、この考え方は本当に正しいのでしょうか。
本稿では、この根強い考え方の是非を、企業の成長と従業員のモチベーションというふたつの側面から考えましょう。
まず、なぜ「成功するか不明なイノベーションより、確実な従業員への分配を」という考え方が多くの共感を集めるのかを確認しておきましょう。従業員の視点から考えると、この考え方に魅力を感じ、納得しやすい、もっともな理由が三つ考えられます。
- 確実で短期的な幸福感
臨時ボーナスは、従業員にとって直接的で分かりやすい報酬です。生活の足しになり、会社への感謝や満足度は短期的かつ確実に高まります。 - 全従業員への公平な還元
イノベーション投資は特定の部署だけが関わることが多い一方、ボーナスは全従業員の頑張りに報いる形となり、公平感をもたらします。 - リスクがゼロである安心感
未来への投資には常に失敗のリスクが伴いますが、分配に失敗はありません。「不確実な未来への賭けより、確実な現在への還元を」という考え方は、安定を求める心理からすれば、非常に合理的に聞こえるのです。
しかし、経営の視点、特に企業の長期的な存続という観点から見ると、この考え方は看過できない重大な問題点をはらんでいます。
- 企業の未来は投資からしか生まれない
企業の最も重要な責務は、社会に価値を提供し続け、それによって存続・成長することです。市場環境が絶えず変化する中で、今日と同じ事業を続けていれば、数年後には競争力を失う可能性が高いでしょう。DXやイノベーションへの投資は、未来の利益、未来の雇用、そして未来のボーナスの原資を生み出すための、必要不可欠な活動です。目先の分配を優先して投資を怠ることは、会社の緩やかな衰退を招き、それは「来年の収穫を諦めて、種籾(たねもみ)を食べてしまう行為」に他なりません。 - モチベーションの質と持続性
ボーナスがもたらす満足感は、残念ながら永続しません。
しかし、イノベーションが成功し会社が成長すれば、より高い給与、安定した雇用、新しいポスト、そして「成長企業で働く誇り」といった、より長期的で質の高いモチベーションが生まれます。これは従業員の「会社への愛着」や「仕事への熱意」を根本から高める力を持つのです。 - 後知恵バイアスという思考の罠
冒頭の批判は、投資が失敗した後だからこそ言える典型的な後知恵バイアスです。
経営者は常に不確実な未来に決断を下さねばならず、挑戦しなければ成功は100%あり得ません。個別の失敗を恐れて挑戦しない文化が根付くことの方が、長期的には遥かに大きなリスクなのです。
ここで、従業員のモチベーションについて考える上で非常に重要な理論をご紹介します。臨床心理学者フレデリック・ハーズバーグが提唱した二要因理論です。
この理論は、仕事の不満に関わる要因と、満足に関わる要因はまったく別物であると説きます。
- 衛生要因(Hygiene Factors)
給与、労働環境、人間関係などがこれにあたります。
これらが満たされないと従業員は強い不満を感じますが、満たされたからといって、それだけではやる気は生まれません。あくまで「不満を予防する」要因です。臨時ボーナスはまさにこの衛生要因を満たすもので、不満を一時的に解消しますが、持続的な意欲には繋がりにくいのです。 - 動機付け要因(Motivators)
達成感、承認、仕事そのものへの興味、責任、成長などがこれにあたります。
これらが満たされることで、従業員は積極的に仕事に取り組み、高い満足感を得ます。つまり「やる気を引き出す」要因です。未来への投資は、成功すれば従業員にこれらの動機付け要因をもたらす可能性を秘めています。
この理論が示すのは、「不満を取り除くこと」と「満足を生み出すこと」はまったく別のアプローチが必要だということです。目先の分配(衛生要因)だけに囚われると、長期的な成長の機会(動機付け要因)を失ってしまうのです。
結局のところ、「投資か、分配か」という問いは、「長期的な可能性」と「短期的な確実性」のどちらを重視するかの選択です。
- 「従業員に分配すべき」という考えは、短期的な視点では一部正しい。
- 「イノベーションに投資すべき」という考えは、長期的な企業の存続という観点から正しい。
この問題は、単に「正しいか、間違いか」で判断するのではなく、「企業の長期的な視点が欠けている考え方には、大きなリスクが伴う」と理解すべきでしょう。
優れた経営とは、この二項対立を乗り越える試みの中にあります。
利益を適切に配分して従業員の貢献に報いながら、同時に未来への投資もしっかりと確保する。そして何より、「なぜ今、この投資が必要なのか。それが成功すれば、会社と従業員にどのような未来が待っているのか」というビジョンを、経営者が自身の言葉で真摯に語り、理解と共感を得る努力を続けることが大切なのではないでしょうか。
冒頭のエピソードに立ち返りましょう。
確かに、数千万円の投資は直接的には実を結びませんでした。しかし、その投資は決して単なる無駄金ではなく、次の成功に繋がる貴重な授業料になり、DXを芽吹かせました。
「授業料が数千万円というのは高すぎる」という批判はもっともです。
一方で、発明王トーマス・エジソンはこう言いました。
「私は失敗したことがない。ただ、1万通りのうまくいかない方法を見つけただけだ」
(I have not failed. I’ve just found 10,000 ways that won’t work.)
この言葉は、エジソンが電球のフィラメント開発に際して、膨大な数の試行錯誤を繰り返したエピソードに関連して語られたとされています。
もちろん失敗は避けるべきですが、それをすべて無駄と断じるのは早計ではないでしょうか。
未来への挑戦には、失敗という授業料がつきものです。
大切なのは、その授業料から何を学び、次の成長へとどのように活かすかだと、筆者は考えます。






