秋元通信

江戸の酒は「新川」から始まった─下り酒が築いた水運の街【後編】

  • 2025.10.21


 
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 前編では、「くだらない」という言葉の語源が、江戸時代に珍重された「下り酒」にあるという説をご紹介しました。上方から樽廻船(たるかいせん)ではるばる運ばれてきた下り酒は、今で言うブランド品であり、江戸の人々の憧れの的でした。
 
 そして、その下り酒が江戸に到着する最終地点こそが、現在の東京都中央区新川でした。
 
 後編では、この新川というエリアに焦点を当てます。
 なぜこの場所が下り酒の一大拠点となったのか、そして、酒の荷揚げ地としてどのように発展し、江戸の経済を支えたのか。
 その歴史を深掘りしていきましょう。
 
 
 

なぜ新川は江戸時代における水運の中心地になったのか

 

新川にあるこの碑には、「慶長年間江戸幕府がこの地に江戸湊を築港してより、水運の中心地として江戸の経済を支えていた。昭和十一年まで、伊豆七島など諸国への航路の出発点として、にぎわった」と記されています。

新川にあるこの碑には、「慶長年間江戸幕府がこの地に江戸湊を築港してより、水運の中心地として江戸の経済を支えていた。昭和十一年まで、伊豆七島など諸国への航路の出発点として、にぎわった」と記されています。


 
 
 江戸の玄関口である江戸湊(えどみなと)には、数多くの船が到着しました。
 その中で、なぜ新川が特に酒問屋の街として発展した背景には、ふたりの人物の存在が関わっています。
 
 徳川家康が江戸に入府した頃、現在の新川あたりは「霊岸島(れいがんじま)」と呼ばれる砂州が広がる湿地帯でした。江戸の発展に伴い、幕府はこの地の埋め立てと水路の整備を進めます。
 また、この地には徳川家ゆかりの有力大名であった越前松平家の中屋敷が広大な敷地を構え、その周囲を囲む堀は「越前堀」と呼ばれていました。
 
 この既存の堀と隅田川を結びつけ、江戸市中への水運ネットワークを完成させるための運河開削を請け負ったのが、江戸前期の大商人であり土木事業家でもあった河村瑞賢(かわむらずいけん)であったと伝えられています。
 
 瑞賢が掘削した「新川」は、まさしく江戸の水運のバイパスでした。上方から樽廻船でやってきた下り酒は、隅田川をさかのぼり、この新川・越前堀を経由することで、江戸城の外堀を通じて江戸市中のどこへでも船で商品を運び込むことができたのです。
 
 さらに、この一帯は埋立地であったため、広大な土地を確保しやすく、酒樽を保管する大きな蔵や問屋の屋敷を構えるのに最適でした。こうして新川は、河村瑞賢の先見性と越前松平家の存在を背景に、江戸の水運ネットワークの心臓部として、下り酒を受け入れるためのすべての条件が揃った理想的な場所となったのです。
 
 
 

酒問屋たちの街 ― 新川の繁栄と文化

 

永代橋通りに残る「河村瑞賢屋敷跡」。 江戸前期の水運を発展させた功労者として、歴史に名を残します。

永代橋通りに残る「河村瑞賢屋敷跡」。
江戸前期の水運を発展させた功労者として、歴史に名を残します。


 
 
 明暦の大火(1657年)の後、河村瑞賢が新川を運河として掘り割ったのは、1660年のことと伝えられます。
 当初は、酒問屋だけでなく、材木商も賑わっていたとされます。そもそも、河村瑞賢は材木商でした。
 
 しかし1700年、深川永代島築地エリア6万坪の埋め立てが完成すると、新川の材木店の多くが現在の江東区木場地区へと移っていきました。そのため、新川は酒問屋が圧倒的に多くなりました。
 
 通りには大店(おおだな)が軒を連ね、河岸には酒を満載した樽廻船が絶え間なく行き交い、活気に満ちあふれていたと伝えられます。
 1737年には、江戸市中の酒問屋 74件のうち、茅場町から新川新堀にかけて27軒が集まっていたそうです。
 
 新川に荷揚げされた下り酒は、ここから江戸中の酒屋へ、そして武家屋敷や料亭へと届けられていったのです。
 
 新川の酒問屋たちは、単なる商人ではありませんでした。彼らは全国の米相場や酒相場を動かすほどの強大な経済力を持ち、時には大名に資金を貸し付ける「大名貸し」を行うほどの存在でした。江戸の経済に対し、新川の問屋は強い影響力を及ぼしていたのです。
 
 彼らの結束と繁栄を象徴するのが、現在もこの地に鎮座する「新川大神宮」です。
 この神社は、江戸時代に新川の酒問屋たちが、自分たちの商売繁盛と安全を祈願するため、伊勢神宮の分霊を勧請(かんじょう)して創建したものです。今でも境内には、全国の酒造会社から奉納された酒樽が積まれており、ここが「酒の街」であったことを何よりも雄弁に物語っています。
 
 
 

新酒の季節、下り酒を届ける一番船はお祭り騒ぎだった

 
 10月は新酒の季節でした。
 
 伊丹・灘・西宮・伝法・兵庫などの酒問屋は、10月になると各自飾り立てた船に新酒を積み込み、一番船14艘の番船が江戸に向けて同じ日同じ時刻に出帆しました。
 その旨は、早飛脚によって江戸に伝えられました。
 
 一番船出帆の知らせが届いた新川新堀の酒問屋では、細い枯れ木を削って利き酒のための針を用意し、男衆は粗い単衣に小倉の帯を締め、前垂をかけて酒蔵や河岸に集まり、番船の到着を今か今かと待っていたそうです。
 
 番船が品川沖に着くと、錨を下ろさぬうちに伝馬船(※沖につけた大きな船から荷物を河岸まで運ぶ小型の舟)を出して、大急ぎで一番船到着の報を伝えたそうです。
 
 下り酒を江戸まで一番に届けることは、とても大きな栄誉です。
 一番乗りを果たした酒問屋は、太鼓を打ち鳴らし、一番船ののぼりをひるがえしながら新川の岸を練り歩くなど、新川を揺るがすほどの盛り上がりを見せたと伝えられています。
 
 
 

現在に続く「下り酒と水運の街」の面影

 

今は埋め立てられてしまいましたが、当時はここから東京湾が一望できたのでしょう。

今は埋め立てられてしまいましたが、当時はここから東京湾が一望できたのでしょう。


 
 
 明治以降、水運から陸運へと物流の主役が移り変わり、新川や越前堀もその多くが埋め立てられました。かつて樽廻船で埋め尽くされた河岸は、現在ではオフィスビルが立ち並ぶビジネス街へと姿を変えています。
 
 しかし、注意深く街を歩けば、今もなお歴史の面影を見つけることができます。

  • 新川大神宮
    前述の通り、酒問屋たちの信仰を今に伝える最大のシンボルです。
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  • 地名や橋の名前
    「新川」「霊岸橋(れいがんばし)」「越前堀公園」といった地名や公園の名は、この土地の成り立ちを今に伝えます。
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  • 酒類・食品関連企業
    今も新川地区、あるいはその周辺の日本橋・京橋エリアには、月桂冠の東京支社をはじめ、大手酒造メーカーや食品関連の企業が多く本社や拠点を構えています。これは、江戸時代から続く食の流通拠点としての名残です。

 
 
 何気なく使っている「くだらない」という言葉。
 その語源をたどると、江戸っ子を熱狂させた「下り酒」の物語へ、そして河村瑞賢が拓き、酒問屋たちが築いた水運の街「新川」の歴史へとつながります。
 
 新川に限らず、特に東京の街には江戸時代の歴史を示すさまざまな痕跡が残っています。
 たまには本稿でレポートしたような、ブラタモリ的な散歩をするのも良いものですね。
 
 
 

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※四谷怪談とお岩さんゆかりの神社については、以下の記事も御覧ください。


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