秋元通信

日本人が18年連続で受賞しているイグ・ノーベル賞と、日本の研究環境の課題

  • 2025.9.30

 日本人が18年連続で受賞している「イグ・ノーベル賞」という世界的な科学賞があります。
 
 名前からわかるとおり、これはかの有名なノーベル賞のパロディです。
 
 「ノーベル賞(Nobel Prize)」に否定の接頭辞「ig-」を組み合わせ、「不名誉な、卑しい」を意味する「ignoble」にも掛けられているイグ・ノーベル賞。本家ノーベル賞のパロディではありますが、しかし劣化版ではありません。
 
 それどころか、「むしろノーベル賞よりも、イグ・ノーベル賞の方が欲しい」と言う研究者もいるほどの、本家とは違う、「ユニークな価値」で世界中の科学ファンを魅了する科学賞であり、ノーベル賞とは異なったベクトルの価値を持つ科学賞なのです。
 
 そしてイグ・ノーベル賞、実は2024年まで日本人研究者が18年連続受賞しています。
 
 本稿では、イグ・ノーベル賞を解説するとともに、日本人研究者による連続受賞が映し出す「現在の研究環境が抱える課題」、ひいては「日本の科学の強みと課題」について考えましょう。
 

イグ・ノーベル賞ってどんな賞?

 
 イグ・ノーベル賞は、1991年に科学ユーモア雑誌『Annals of Improbable Research』編集長のマーク・エイブラハムズ氏によって創設されました。その目的は、「人々をまず笑わせ、次いで考えさせる」業績を称えることです。
 
 イグ・ノーベル賞の魅力は、「笑い」を入り口にして、科学への心理的な壁を取り払い、私たちの知的好奇心を刺激してくれる点にあります。「こんなことを真面目に研究するなんて!」という驚きと笑いの後に、「でも、言われてみれば不思議だ」「もしかしたら、すごい発見かもしれない」と考えさせてくれるのです。
 

ユーモアあふれる授賞式

 
 授賞式も非常にユニークです。会場では観客が紙飛行機を舞台に向かって一斉に飛ばすのが恒例で、そのお掃除係を本物のノーベル賞受賞者が務めていたこともありました。
 
 受賞者のスピーチは60秒という厳しい時間制限があり、もし時間を超えると、「ミス・スウィーティー・プー」と呼ばれる8歳の女の子が舞台に現れ、「もうやめて!退屈なの!」とスピーチが終わるまで叫び続けます。これも、難解な話を長々とするのではなく、誰にでも分かる言葉で簡潔に伝えることの大切さを示す、ユーモラスな演出なのです。
 

ノーベル賞のパロディー、だけじゃない

 
 イグ・ノーベル賞は、単にノーベル賞をからかっているだけではありません。
 
 両方の賞を受賞したアンドレ・ガイム博士の例は、両者の興味深い関係を象徴しています。彼は2000年に「磁力でカエルを浮かせる」研究でイグ・ノーベル賞を、その10年後には全く新しい素材「グラフェン」に関する研究で本物のノーベル物理学賞を受賞しました。
 
 この事実は、「遊び心」あふれる研究、あるいはそういった研究に対する研究者の姿勢が、世紀の大発見につながる創造性の源泉となり得ることを示しています。ノーベル賞が偉大な発見という「終着点」を評価するのに対し、イグ・ノーベル賞は、その発見のきっかけとなる好奇心や探求の「出発点」を称えている、と考えることもできるでしょう。
 

日本の研究者たちの輝かしい受賞歴

 
 日本の研究者たちは、長年にわたってイグ・ノーベル賞の常連です。その研究テーマは驚くほど多様で、私たちの日常に潜む素朴な疑問や、誰も考えつかなかったような奇抜な発想から生まれています。
 
 例えば、以下のような研究が受賞してきました。
 

  • 物理学賞(2014年):バナナの皮はなぜ滑るのか、摩擦係数を真面目に測定した研究。
  • 化学賞(2011年):火災時にわさびの刺激臭を噴射して、聴覚障がい者に危険を知らせる警報装置の開発。
  • 化学賞(2013年):タマネギを切ると涙が出る原因となる酵素を発見した研究。
  • 生物学賞(2017年):オスとメスで生殖器の形が逆になっている昆虫の発見。
  • 医学教育賞(2018年):医師が自ら大腸内視鏡検査を座った姿勢で行う方法を実証した研究。
  • 生理学賞(2024年):哺乳類が、いざという時に肛門からも呼吸できる可能性を示した研究。

 
 これらのテーマは、一見すると「何の役に立つの?」と思うかもしれません。しかし、バナナの皮の研究は人工関節の潤滑技術に、肛門呼吸の研究は緊急時の新たな呼吸法の開発に、わさび警報装置は実際の製品化につながるなど、笑顔の裏には真剣な科学と社会への貢献の可能性が秘められています。
 

成功の理由1:ユニークさを尊重する文化

 
 では、なぜ日本からこれほど多くの受賞者が生まれるのでしょうか。創設者のエイブラハムズ氏は、日本文化には「普通でないことをする人を誇りに思う傾向がある」と指摘しています。
 
 確かに、日本ではひとつのことを深く、こだわり抜いて探求する「ものづくり」の精神や、特定の分野に情熱を注ぐ「オタク」文化が広く受け入れられています。
 
 歴史を振り返っても、常識にとらわれない「普通でない」人物が人気を博してきました。
 
 例えば、若い頃は「うつけ者」と呼ばれながらも旧来の慣習を破壊し天下統一を目指した織田信長、「画狂老人」と名乗り奇行を繰り返しながらもひたすらに絵の道を追求した浮世絵師の葛飾北斎、そして発明家、作家、画家など驚くほど多彩な分野で才能を発揮した「江戸のレオナルド・ダ・ヴィンチ」こと平賀源内などがその好例です。
 
 こうした土壌が、他の人が「くだらない」と見過ごしてしまうようなテーマにも真剣に取り組む研究者を後押ししているのかもしれません。周りから少し変わっていると思われても、自分の好奇心を貫き通す姿勢が、独創的な研究につながっていると考えられます。
 

成功の理由2:逆境が生んだ「ゲリラサイエンス」

 
 しかし、その背景には、皮肉な現実も隠されています。現在の日本の科学界は、研究費の削減や、若手研究者の不安定な雇用問題など、深刻な課題に直面しています。
 
 一方…、と言うべきか、それとも「それゆえに」と言うべきなのかは難しいのですが。
 
 日本では、短期的に成果が出やすい安全な研究が優先され、すぐに役立つか分からない基礎研究や、リスクの高い独創的な研究は、公的な支援を受けにくい状況にあります。
 
 このような逆説的な環境が、イグ・ノーベル賞の成功につながっているという見方があります。つまり、公式な研究システムの中では評価されにくい「風変わりな」研究が、研究者個人の情熱や、時には自己負担による努力によって、いわば「ゲリラ的」に進められているのです。限られた予算の中で、身近な現象を注意深く観察したり、ありあわせの道具で賢く実験したりする「ブリコラージュ(日曜大工)」的な創意工夫が、世界を驚かせる発見につながっているのかもしれません。
 
 日本の連続受賞は、こうした逆境にも負けない個人の探求心の強さの表れと見ることもできます。
 

研究のあるべき姿とは

 
 ある大企業の研究者が配信しているPodcast番組において、研究者のあるべき姿について議論されていました。いわく、「最近の研究論文には、ほぼ必ずと言っていいほど、研究成果がもたらす経済的、あるいは社会的なメリットが記されている。しかし、研究者本来の姿勢としては、これは邪道であって、『おもしろいから』『おもしろそうだから』という知的好奇心を探求することが研究者としての正道なのではないか?」という内容でした。
 
 これは、まさに日本のイグ・ノーベル賞受賞者たちの研究姿勢に通じるものではないでしょうか。
 
 筆者自身は研究者ではありませんから、この考え方が正しいのか、それとも正しくないのかを判断することはできません。
 
 ただ、イグ・ノーベル賞の存在を知ったとき、「これこそが知的好奇心を起点とした研究なんだろうな」と感じました。
 
 イグ・ノーベル賞は、科学のおもしろさや奥深さを、私たちに最も分かりやすく伝えてくれる優れたコミュニケーションツールです。そしてこの賞は子どもたちや若い世代に「常識にとらわず、自分の『なぜ?』を大切にしよう」という強力なメッセージを送っています。他の人に笑われても、自分の好奇心に従うことの価値を示してくれるのです。
 
 日本人研究者によるイグ・ノーベル賞における快進撃は、ユニークさを尊ぶ文化的な強みと、厳しい研究環境という逆説的な状況の中で花開いた、稀有な現象と言えるでしょう。このイグ・ノーベル賞が培った精神を、単なるおもしろい話として終わらせるのはもったいないです。
 
 日本の未来の科学をより豊かにしていくための資産として、大切にしていきたいものです。

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