秋元通信

「フーテンの寅」が現代にいたら、ハラスメント行為で訴えられている…かも??

  • 2025.11.20

「今こそ、『トラック野郎』を復活させるべきだと思うんですよ」── これはある運送業界関係者の言葉です。
 
 「トラック野郎」とは、1975年から1979年にかけて東映が製作した全10作の人情喜劇シリーズです。
 
 主人公は、ド派手に装飾されたデコトラ「一番星号」を駆る長距離運転手、星桃次郎(菅原文太)。相棒の松下金造(愛川欽也)と共に日本全国を舞台に珍道中を繰り広げます。
 
 毎回、旅先で出会うマドンナに桃次郎が一目惚れし失恋するというパターンを基本としつつ、人情話、下ネタ満載のコメディ、そして一番星号によるド迫力のカーアクションが魅力。デコトラブームの火付け役となりました。
 
 当時は、松竹の「男はつらいよ」シリーズと並び、人情喜劇として人気を博した作品でした。
 
 
「今の60代のトラックドライバーって、『トラック野郎』に憧れてドライバーを目指したって人が少なからずいるんですよね。ドライバー不足が社会問題にもなっている今だからこそ、『ドライバーになりたい!』と思えるようなアイコンが必要だと思うんです」と、この方は語ります。
 
 …確かに、トラックドライバーのイメージを良くするようなアイコン的存在は、必要かもしれません。
 ただし、今の時代に、「トラック野郎」や「男はつらいよ」のような人情喜劇が受け入れられるのでしょうか?
 
 

「トラック野郎」と「男はつらいよ」が終了した理由

 
 1969年から1995年までの26年間で全48作が作られた「男はつらいよ」シリーズに対し、「トラック野郎」シリーズは、わずか4年間で幕を閉じました。
 
 「トラック野郎」シリーズ終了の背景には、興行収入の低下や、主演を務めた菅原文太氏の意向があったと伝えられます。当時、「仁義なき戦い」シリーズ(1973年〜)で実録路線の人気スターとして地位を既に獲得していた菅原文太氏は、三枚目でお調子者の「一番星」こと星桃次郎役のようなコメディを苦手としており、「トラック野郎」シリーズを辞めたがっていたというのです。
 
 一方の「男はつらいよ」シリーズで、主演を務めた渥美清氏は、主人公である車寅次郎(フーテンの寅)を演じることをライフワークとしていました。1996年8月、膵臓がんによって逝去される前年に公開された48作目まで、渥美清氏は「寅さん」を演じ続けました。渥美清氏のいない「男はつらいよ」はありえず、シリーズは終了することになったのです。その後、2本の新作が公開されましたが、いずれも過去に撮りためた膨大なストックを再編集し、残されたキャストによる新撮影シーンを加えたものです。
 
 余談ですが、「男はつらいよ」シリーズの興行成績は、驚異的な安定と晩年の再ブレイクという稀有な軌跡を辿りました。
 
 1969年の開始以来、お盆と正月の「国民的行事」として定着し、松竹の経営を支える絶対的なドル箱となりました。70年代後半から80年代初頭には観客動員数200万人前後を記録する黄金期を築きます。80年代中盤には長期化によるマンネリから数字が落ち着く時期もありましたが、それでも150万人レベルを維持する底力を見せました。
 
 特筆すべきは晩年の90年代です。甥の満男(吉岡秀隆)と泉(後藤久美子)の恋を描く物語が若年層を取り込み、観客動員数は再び200万人台へV字回復します。「第2の全盛期」とも呼べる活況の中、第48作まで高水準のヒットを継続しました。
 
つまり、本シリーズは人気が衰えて終わったのではなく、再上昇気流に乗った絶頂期の中で、主役の逝去により幕を閉じたのです。
 
 

では今、「車寅次郎」のような主人公を据えた作品は受け入れられるのか?

 
 30年前、惜しまれつつ終了した「男はつらいよ」シリーズですが、では今、「男はつらいよ」シリーズを復活させれば、再び人気を集めるのでしょうか?
 
 筆者は難しいと考えています。
 ポイントは、「寅さんのキャラクター設定」と、現代における「人情のあり方」です。
 
 
 まず、車寅次郎のキャラクターについて確認しておきましょう。
 

  • 通称: フーテンの寅
  •  

  • 職業: 的屋(てきや)/香具師(やし)
    全国を旅し、祭りや縁日で啖呵売(たんかばい)をして生計を立てる個人事業主。組織には属していません。
  •  

  • 性格:「短気で喧嘩早いが、涙もろくて情に厚い」江戸っ子気質

 
 車寅次郎のキャラクター設定について、さらに深堀りしましょう。
 車寅次郎という人物の核にあるのは、大人としての「美学」と、子供のような「未熟さ」が、混ざり合うことなく同居しているという強烈な矛盾です。
 
 彼の持つ「圧倒的な人間的魅力」は、損得勘定を一切持たない純粋な心から生まれます。彼は、肩書きや立場といった社会的な鎧を無視して、相手の懐へ土足で、しかし温かく踏み込みます。困っている人を見れば後先を考えずに全財産を投げ出し、愛する人の幸せのためなら、自らの恋心を押し殺して身を引く粋な優しさも持ち合わせています。この計算のない情熱と行動力が、孤独な人々の心を瞬時に溶かし、救済するのです。
 
 しかし、その純粋さは裏を返せば「社会不適合な幼稚性」そのものです。彼は自分の感情をコントロールする術を持たず、気に入らないことがあれば所構わず癇癪を起こし、周囲を凍りつかせます。反省を口にしたそばから同じ過ちを繰り返し、経済的な責任も家族への配慮も放棄して、妹のさくらに依存し続けます。それは、社会生活を営む大人としては致命的な欠陥であり、合理性を重んじる現代の視点では、単なる「迷惑な存在」と断じられてもおかしくない振る舞いです。
 
 「男はつらいよ」シリーズは、車寅次郎というハチャメチャな人物に対し、常識人である妹のさくらとその夫の博(※車寅次郎の義弟)という、言わば心理的な安全装置があったからこそ、ファンから愛される存在になっていました。
 
 ただし..、想像してみてください。
 車寅次郎のような性格の人物が身の回りにいたら、とてつもなく迷惑だと思いませんか?
 
 
 現代社会は、非合理性や矛盾を受け入れにくくなっています。
 車寅次郎のように、毎回同じ失敗をしでかし、同じ迷惑をさくらや博にかけ続ける存在──すなわち成長しない人──は、現代社会では愛すべき存在にはなりえないのです。
 
 

現代作品における非合理なキャラクターに求められること

 
 現代でも、非合理や矛盾を抱えた登場人物はフィクションの中に存在します。
 例えば大ヒットアニメ「鬼滅の刃」において、鬼に敵対する正義の組織である鬼殺隊には、「柱」と呼ばれる最も位の高い剣士9人が登場します。
 
 個性が強すぎるこの「柱」についても、作品中では「なぜ、この人はこういった性格なのか?」という点がきちんと説明されています。
 
 例えば、柱のひとりである不死川実弥。
 主人公の竈門炭治郎はもちろん、実の弟にまで敵意を向けるという不愉快な振る舞いを繰り返すキャラクターにおいても、実は秘められた弟への愛情を抱いている様子がきちんと説明されています。
 
 同じく柱のひとりである胡蝶しのぶは、いつも不自然なまでに笑顔であり、その様子には薄気味悪さすら感じます。しかし作中では、その笑顔をキープし続ける理由として、最愛の姉を失った悲しみが隠されていることが説明されました。
 
 現代の作品においては、「なぜこの登場人物は、◯◯のような不合理な行動を取るのか?」といったことに対し、きちんと説明責任を果たさなければ受け入れられないのです。
 
 これは、フィクションの中だけの話ではなく、現実社会でも同様です。
 
 もし今、「男はつらいよ」の最新作が製作されたら、SNSは「非合理の象徴」である車寅次郎に対する不平不満であふれる可能性すらあると、筆者は考えます。
 
 

人情から絆へ

 
 もうひとつの理由として挙げた「人情のあり方」についても説明しましょう。
 ポイントは、「人情と絆の違い」です。
 

  • 人情
    人が本来持っている人間らしい気持ち
  •  

    • 1.人を繋ぎとめるもの
    • 2.人と人との大切な繋がり

※ともに三省堂国語辞典から
 
 
 「人情」と「絆」は、どちらも人間関係の深さを表す言葉ですが、その発生源と方向性において決定的な違いがあります。
 
 人情とは、個人の内側から湧き上がる感情を指します。
 「かわいそうだ」「放っておけない」といった、相手を思いやる、ふとした心の動きであり、そのベクトルは「私からあなたへ」という一方通行の性質から始まります。
 人情は、見知らぬ他人にも注がれる温かい慈雨である反面、相手の事情や合意を必要としません。だから車寅次郎は、時に土足で心に踏み込むお節介やありがた迷惑な行動を取るのです。
 
 対して絆とは、二者の間に存在する強固な関係性を指します。
 もともと(絆とは)家畜をつなぎ止める綱を意味したように、これは一朝一夕の感情ではなく、共に時間を過ごし、苦難を乗り越えた経験によって編み上げられる太いロープと言えます。そこには「お互いに背中を預けられる」という双方向の信頼と合意が存在する両方向の性質を備え、対等な立場での結束が求められます。
 
 
 現代社会において、かつてのような人情が敬遠され、絆が求められるのは、この合意形成と距離感の違いが要因です。
 個人の自立とプライバシーが重視される現代では、同意なしに踏み込んでくる人情はリスクやストレスとして認識されやすく、逆に、確かな信頼と実績に裏打ちされた絆こそが、孤独な社会を生き抜くための安全な命綱として渇望される傾向にあります。
 
 「鬼滅の刃」などは、まさに絆の物語と言えます。
 最初は弱く普通の少年だった竈門炭治郎は、さまざまな人と出会い、やがて心身両面で強くなっていきます。それは、まさに絆が生み出した強さと言えるでしょう。
 
 

合意形成が前提となる今だったら、寅さんはハラスメントで訴えられるかも

 
 「なぜ現代人は寅さん(人情)にストレスを感じ、絆を求めるのか」──つまり、「人情から絆へ」という変化の根底には、「合意(コンセンサス)の有無」という、現代の絶対的なルールが存在しています。
 
 
「善意」でも「合意」がなければ暴力になる
かつての人情の世界では、善意があれば、相手の領域に土足で踏み込むことが許容(さらに言えば「称賛」)されていました。
昭和の論理で言えば、「あなたのことを思ってやったのだから(=動機が善であるのだから)、多少強引でも感謝されるべきだ」という考え方です。
 
「どれほど善意であっても、私の許可なく領域に入れば、それは侵入(加害)である」のが現代
相手が求めていない一方的な愛情や親切は、現代の法律や倫理観ではハラスメントやストーカー行為と紙一重です。
作中において寅さんがマドンナを追って地方までついていく行為が描かれます。昭和では「一途な恋」でしたが、現代の客観的な指標で見れば「つきまとい(ストーカー規制法違反の恐れあり)」と訴えられてしまう可能性すらあります。
 
 
 現代において絆が重視されるのは、それが単に温かいからではなく、「合意に基づいているため、安全性が保証されている(ストーカー化しない)」という、リスク回避の要素もあるのかもしれません。
 
 ただし絆のベースとなる合意形成第一主義にもリスク、あるいはジレンマはあります。
 それは、「相手がSOSを出すまでは、手を差し伸べることが難しい」という点です。
 
 以前、消極的利己主義という心理状況を、メルマガ「秋元通信」ではお届けしたことがありましたが。
 現代では、「声をかけたいけど、不審者と思われないか?」「手伝いたいけど、余計なお世話(ハラスメント)と言われないか?」といったリスクが、結果として消極的利己主義のエスカレートに拍車をかけているのかもしれません。
 
 
 人情と絆のジレンマは、企業内における上司と部下の関係においても作用することがあります。端的に言うと、「どこまで土足で踏み込んでよいのか?」を部下との関係における合意形成という観点から判ずることができない上司は、「うざい」と嫌われてしまう、ということです。
 今回のテーマとは離れてしまうので、このテーマは機会があれば取り上げましょう。
 
 
 さて、冒頭の話に戻りましょう。
 「今こそ、『トラック野郎』を復活させるべきだと思うんですよ」という課題提起については、「トラックドライバーに憧れるようなアイコンが今こそ必要」という観点では同意できます。しかし「『トラック野郎』が今の時代に受け入れられるか?」と言えばNoでしょう。
 
 そもそも、(本稿のテーマとズレてしまいますが)現実味がないですから。
 現代では、トラックを自己所有する持ち込みドライバーなんて絶滅危惧種ですし、そもそも改善基準告示にがんじがらめにされているドライバーが、「配送先で出会ったマドンナと恋に落ちる」なんて時間はありません。
 
 このように考えると、「トラック野郎」が物語として成立した昭和というのは、良くも悪くも自由な時代だったのだな、と感じます。


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