「目上の人に対し、『なるほど』とあいづちを使用するのはNG」──こういったビジネスマナーがまことしやかに広まっています。
理由は、「なるほど」というあいづちは、相手の発言を評価していることに当たるから。つまり、目上の人を評価するという行為そのものが不敬だとする考え方です。
しかし、以前から「なるほど」は目上の人にも使用されており、「まったく不敬ではない」とする考え方もあります。
「なるほど」は漢字で「成る程」と書きます。
もともとは「成る丈(なるたけ)」と同じく、「できる限り」「もはやこれ以上はないほど」という、極限を表す副詞でした。「なるほど、おっしゃる通りだ」という表現は、「これ以上ないほどに、あなたの言うことはもっともだ」という、最大級の肯定と驚きを内包していたのです。
それゆえに、明治から大正にかけての知識人たちの間で「なるほど」は決して失礼な言葉ではありませんでした。
その証拠は、文学作品に残っています。
例えば、夏目漱石の「こころ」。
学生である「私」は、尊敬してやまない「先生」との対話の中で、しばしば「なるほど」を口にします。
例
「なるほど。それも一つの見識ですね」と私は感心しました。
ここでの「なるほど」は、若者が年長の賢者の意見に深く納得し、知的な刺激を受けたことへの純粋な感動として描かれています。
もし当時、「なるほど=失礼」というルールがあれば、師弟関係の機微を繊細に描く漱石が、これほど敬愛する相手への言葉として多用するはずはないでしょう。
また、「吾輩は猫である」では、気難しい苦沙弥(くしゃみ)先生が、友人の迷説を聞いて「なるほど」と応じる場面が多々登場します。
ここでは、相手の理屈に理解を示したこと、すなわち知的な同意の証として「なるほど」が機能しています。
当時の「なるほど」は、相手の話を評価するのではなく、「自分の知らなかった視点を与えられたことへの、知的な敬意」を込めた、とてもポジティブなあいづちでした。
「なるほど」が失礼にあたるという、新たな認識を示し始めたのは、マナー講師たちだという説が有力です。
1980年代以降、日本の経済成長に伴い、ビジネスマナーが体系化・商品化され、マナー講師という新たな職業が誕生しました。このマナー講師たちが「目下の者が目上を評価するのは傲慢である」という理屈を広めたとされます。
- 「なるほど」には、自分の基準に照らし合わせて合格を出すというプロセスが含まれる
- ゆえに目上の人の発言を、目下の人が評価するということになる
この論理は、組織の上下関係を重んじる日本社会に、驚くほど急速に浸透しました。
さらに「なるほどですね」という、丁寧さを補おうとした妙な言い回しが流行したことで、かえって軽薄な印象を強めてしまうという皮肉な結果も招きました。
しかし近年、この「なるほど=失礼」に対して、言語学者やビジネス現場から疑問の声が上がっています。
「過剰なマナーがコミュニケーションを萎縮(いしゅく)させている」という指摘です。
またマナー講師たちが、自身のビジネスを拡大させるために、マナー違反を捏造・増殖しているのではないかという「失礼クリエイター」という言葉も生まれました。
2022年、「チコちゃんに叱られる!」(NHK)に出演したマナー講師の態度がパワハラ的で不愉快だとして炎上したことがありました。
この講師は、マナー指導の対象となった番組スタッフの揚げ足取りをしては罵倒し続け、結果、涙ぐんでしまった番組スタッフに対し、「いい年をして泣くな!」とさらにまくし立てたそうです。
実は筆者も、自称マナー講師によって不愉快な経験をしたことがあります。
当時、神奈川県内の運送会社に勤めていた筆者は、地元の産業展に出展していました。すると初老の男性が質問をしてきたのですが、その態度はとても高圧的でした。質問に対して回答をしていると、筆者の発言を遮り別の質問をしてきたり、あるいは機密情報に該当するため「答えられない」というと「君は失礼だ!」と声を荒らげて批判してきました。
すると数日後、そのマナー講師が会社にやってきました。そして「あいつ(筆者のこと)はビジネスマナーがなっていない。性根から叩き直してやるから自分をマナー講師として雇え」と社長に談判してきたのです。
要は圧迫面談を行うことで筆者の対応力を評価し、自身の売り込みに利用しようと目論んだのですね。
ちなみに社長は、「当方の営業活動の場を利用し、逆営業をかけるようなあなたにマナー講師を名乗る資格はない」と追い返しました。
これは極端な体験だとは思いますが。
日本語の持つ美しさを尊重せず、自らマナー違反を捏造してはそれをマナー指導のネタにする、言わばマッチポンプなビジネスを行う一部のマナー講師には問題があります。
そして「なるほど」は、その被害者なのです。
「なるほど」を巡る騒動は、私たちが言葉を「形」だけで捉えるか、「心」で捉えるかを問いかけているのではないでしょうか。
実際、部下が「はい、承知いたしました」と無機質に答えるよりも、目を輝かせて「なるほど! 勉強になります!」と言う方が、上司の立場からすれば手応えを感じられることもあるでしょう。
とは言え、「なるほど=失礼」と認識している人も中にはいるわけですから、初対面の人との会話においては、「なるほど」は封印したほうが無難かもしれません。
逆に、人間関係を築くことができている方には、「なるほど」とあいづちを打つほうが、むしろかわいがられる可能性もあります。
コミュニケーションは、言葉だけで交わされるものではありません。
目や手の動き、姿勢、そして何よりも感情の裏付けなどの総体こそがコミュニケーションの本質です。
つまり大切なのは、「なるほど」という言葉を生み出したあなたの感情です。
前述のとおり、「これ以上ないほどに、あなたの言うことはもっともだ」という、最大級の肯定と驚きを感じた結果として口に出た「なるほど」であれば、相手も失礼とは感じないのではないでしょうか。






