昭和38年~39年ごろの弊社本社(深川)
秋元運輸倉庫の歴史
東京港は、室町、鎌倉の時代より、品川湊を中心に物流の拠点として活発な経済活動を行っていました。
東京港が近代港湾として、本格的な整備を開始したのは、大正12年の関東大震災であったと言われています。
震災によって陸上輸送が壊滅的な打撃を被り、海上輸送に対するニーズが高まったものの、当時の東京港はそのニーズに応えるだけの施設と準備を持ち合わせていなかった。その反省から、東京港の整備と近代化が加速していきました。
秋元運輸倉庫が創業したのは、大正6年のこと。
はしけ業を生業に、東京深川にて産声を上げた弊社は、まさに東京湾近代化の歴史とともに、物流、倉庫と業務を拡大してまいりました。
弊社に残る数々の写真とともに、秋元運輸倉庫の歩みの一端をご紹介するとともに、懐かしい昭和の雰囲気を感じていただければ幸いです。
昭和30年~40年代前半
艀(はしけ)とは、貨物を運ぶための船舶を指します。
水深の浅い河川や運河、港湾を運行するため、喫水が浅く、平底の船となっています。ほとんどのはしけにはエンジンが積んでいないため、タグボートに引かれ(もしくは、押されて)運行します。
昭和30年~40年代には、隆盛を誇ったはしけ運送ですが、トラック輸送の発展に押され衰退していきます。
はしけ業からスタートした弊社ですが、昭和53年にはしけ運送事業を廃止しています。
背後に見えるのは、首都高速1号羽田線と思われる。
今見ると、寅さんのコスプレのような格好だが、当時はいなせで粋な姿だったのだろう。
左が昭和43年の写真。右は現在。
竹芝桟橋と日の出埠頭の間を河口とする古川の画像。
左側に見える建物は、東京芝浦電気(※現在の東芝)。奥に見えるのは、首都高速浜崎橋ジャンクション。
当時、水運が隆盛を誇っていた様子がうかがえる一枚。
奥に東京タワーが見える。
なお、手前に駐車している乗用車は、いすゞの「ヒルマンミンクス」。
トラック、バスの専業メーカーだったいすゞが初めて発売した乗用車であり、後にモータースポーツでも性能を発揮した名車。
経緯は不明だが、弊社の社員が乗っていたのかもしれない。
当時から変わらず、弊社のコーポレートカラーは緑。
鼻の長いボンネットトラックが、時代を感じさせる。
昭和40年代後半
今はなくなってしまったが、当時は汐留に操車場があり、日の出、芝浦まで線路が延伸していた。
赤い部分が、弊社の倉庫部分。
また、画像の下部(※アサノセメントに接する所)は、海岸通り/首都高速1号羽田線となる。
当時は野積場だった。
今は懐かしい、カタカナ表記のレナウン社看板が見える。
当時から、ここ芝浦地域はアパレル関係企業が多く拠点を構えていたことが分かる。
当時の沿岸荷役免許の条件のひとつに、レッカーの所有が定められていた。
ちなみに、このレッカー、車両とレッカー部分は車検が別であった。
吊り上げ重量は、25tだったと記憶している。
当時は悪路がまだ多かったため、タイヤのトレッドパターンが、「ラグ型」と呼ばれる悪路に強いタイプになっている。
当時はまだ数の少なかったフォークリフトにて、フレコンを積み込んでいる。
左端に写っているのは弊社のトラック。
弊社コーポレートカラーの緑のベースに、今の車両にはない黄色のラインが入っている。
トラックの後方に、首都高速1号羽田線とアサノセメントにつながるベルトコンベアが見える。
フォークリフトによってフレコンを運んでいるが、今と違い、当時のフォークリフトは希少。どこの物流企業でも使えるものではなかった。
梁などの構造が、時代を感じさせる。
対岸は、晴海の水産埠頭と思われる。
場所は、現在の東京都港区海岸2丁目1番付近。
本社屋、現在は存在しない。
当時のファックスは、左側の電話で相手先につないでから、ファックス通信に切り替える方式だった。