秋元通信

実はお岩さんは良妻賢母だった!? 四谷怪談の真実

  • 2018.8.10

右側が於岩稲荷 田宮神社、左側が於岩稲荷 陽雲寺。「お岩さんゆかり」を謳う、神社とお寺が、通りを挟んで向かい合います。

 
 
日本を代表する怪談と言えば、『東海道四谷怪談』と『番町皿屋敷』です。
顔半分が見にくくただれたお岩さんが、「うらめしや~」と登場するさまは、『東海道四谷怪談』を冠した歌舞伎や映画などをご覧になったことがない方でも、イメージが浮かぶのではないでしょうか。
 
東京メトロ:四谷三丁目駅からほど近い通りには、「於岩稲荷」(おいわいなり)を名乗る神社とお寺が通りを挟んで向かい合っています。
そして、そこに書かれた立て札には、実はお岩さんが良妻賢母であり、地元の尊敬を集めていたことが書かれています。
 
今回は、『東海道四谷怪談』に隠された真実をご紹介しましょう。

※以下の画像は、すべてクリックで拡大します。

 
 

『東海道四谷怪談』とは

 
『東海道四谷怪談』とは、1825年(文政8年)に初上演された、鶴屋南北作の歌舞伎狂言です。
あらすじをごく簡単にご紹介しましょう。
 

落ちぶれた同心である民谷左門は、娘であるお岩に、婿養子:伊右衛門をとり、民谷家の再興を図ります。
ところが、この伊右衛門、とんでもない悪党で義父の左門を辻斬りに見せかけて殺害した挙げ句、不倫をしてしまう。当然、妻であるお岩が疎ましくなった伊右衛門、策をめぐらしお岩に毒を盛る。毒のせいで顔半分がただれた、醜いお岩の姿に、伊右衛門の悪仲間である按摩の宅悦は怯え、伊右衛門の悪行をばらしてしまう。
お岩は恨みに悶え苦しむが、誤って刀を首に刺してしまい死んでしまう。お岩の死体は戸板にくくりつけられて川に流される。
伊右衛門は不倫相手との婚礼を迎えるが、現れたお岩の幽霊を見て錯乱、正気を失い、すべてを失った挙げ句、仇討にあって殺されてしまう…

 
なんか、すごいですね…!
現代の昼ドラ顔負けというか。ここにあげた伊右衛門を中心とするストーリーに加え、登場人物たちの不義密通やら近親相姦まで登場する、なんともどぎつい物語が、『東海道四谷怪談』なんです。
 
 

『真実のお岩さん』の姿

 


東京メトロ:四谷三丁目駅から徒歩5分ほど、外苑東通りから一本入った裏通りに、お岩さんの末裔が神主を務める『於岩稲荷田宮神社』があります。
『東海道四谷怪談』のお岩さんの姓は「民谷」ですが、ほんものは「田宮」。
『於岩稲荷田宮神社』は、「歴史ある、古い神社なんだろうな…」と感じさせる、質素でこじんまりとした神社です。
『於岩稲荷田宮神社』は、東京都指定旧跡に指定されています。東京都教育委員会の名が入った看板にはこのように記されています。
 

「田宮稲荷神社は、於岩稲荷と呼ばれ御先手組同心田宮家の邸内にあった社です。初代田宮又左衛門の娘お岩が信仰し、養子伊右衛門とともに家勢を再興したことから「お岩さんの稲荷」として次第に人々の信仰を集めたようです」(※一部省略して転記)

 
お岩さんが亡くなったのは、1636年(寛永13年)とされます。
『東海道四谷怪談』の初演が1825年ですから、つまりは200年も後に作られた創作が、『東海道四谷怪談』なのです。
 
 

『東海道四谷怪談』のお岩さんは誰なのか?

 
『東海道四谷怪談』は、1727年(亨保12年)に書かれた『四谷雑談集』(※「ざつだん」ではなく「ぞうだん」と読むそうです)を元として書かれた、とされています。
『四谷雑談集』の中に、四谷怪談と似た事件が元禄時代に発生したことが記されています。
 
ただし、元禄時代とは、1688年から1704年。
つまり、田宮又左衛門の娘お岩とは、時代が合わないことになります。
そもそも、夫を立て、家を再興した良妻賢母であるお岩さんが、なぜ恐ろしい幽霊として描かれなくてはならなかったのか?、という根本的な疑問があります。
 

  • そもそも、『東海道四谷怪談』は当時発生した猟奇的な事件をうまく組み合わせてひとつのストーリーに仕立てたものであり、本当の意味でのモデルなどいないという説。
  • 田宮家ゆかりの女性失踪事件が、怪談にすり替わって伝わったという説。
  • 『東海道四谷怪談』のモデルは田宮家二代目の嫁であるお岩さんではなく、五代目の妻ないし娘であったという説。理由としては、5代目で一度田宮家が断絶していることから。断絶の原因となった事件が、『四谷雑談集』、ひいては『東海道四谷怪談』の元となったと推測される。

さまざまな説がありますが、どれも決定的とは言えません。
 
 

なぜ、於岩稲荷がふたつあるのか?

 


 
話が変わります。
『於岩稲荷田宮神社』から通りを挟んだはす向いに、同じくお岩さんを祀った『於岩稲荷陽運寺』があります。
こちらは、『於岩稲荷田宮神社』とは違い(…というと失礼かもしれませんが)、立派な山門を構えたお寺です。境内に入ると、敷地は狭いものの、瀟洒で手入れの行き届いたつくりが心をなごませてくれます。
『陽運寺』Webサイトによれば、お岩さんにゆかりのある祠がお寺の起源なんだとか。
 
実は『陽運寺』、昭和初期に創建されたお寺です。
『東海道四谷怪談』の初演から約50年後の1879年(明治12年)、『於岩稲荷田宮神社』は火事で消失し、中央区新川に引っ越してしまいました。困ったのは、地元四谷左門町の皆さまです。大ヒットした『東海道四谷怪談』のおかげで観光客がたくさん来ていたのに、肝心要の『於岩稲荷田宮神社』がいなくなってしまったのですから、それはそれは困るでしょう。
地元の皆さまは、四谷お岩稲荷保存会なるものを立ち上げます。その時に担ぎ上げたお岩尊という祠が、現在の『陽運寺』が言うところの祠です。
 
ちなみに、お岩さんを詣でたのは、歌舞伎役者や花柳界の芸者たちだったんだとか。お岩さんの執念にあやかり、男の浮気封じに効く芸者たちに人気を集めたそうです。
なお、一旦は中央区新川に引っ越した『於岩稲荷神社』ですが、戦後再び同地に残っていた田宮家の屋敷内に戻ってきて現代に至っています。
 
 

円熟した文化は、美しくも退廃したドラマを求める

 
鶴屋南北が『東海道四谷怪談』を書き上げ、初演したのは1825年のこと。
それから約40年後、世は徳川の治世から明治へ移行しました。1868年のことです。
 
つまり、文化は円熟していたものの、時の施政者に対する不満がくすぶった世紀末的な時代、そんな時代に生まれたのが、『東海道四谷怪談』だったわけです。
『東海道四谷怪談』の初演は、『忠臣蔵』と同時上演されました。『東海道四谷怪談』において、悪者である伊右衛門を討った佐藤与茂七は、その後続けて上演される『忠臣蔵』で今度は吉良邸への討ち入りに参加する演出だったんだとか。
 
とても、興味深いと思いませんか?
 
 
筆者は、『東海道四谷怪談』のお岩さんのモデルとなった女性、事件など、存在しなかったと想像しています。もちろん、似たような事件はあったと思います。しかし、ほんとうの意味でのモデルなどいなかったのではないでしょうか。
では、なぜ良妻賢母として世の人の信仰を集めていた田宮岩(お岩さん)を、鶴屋南北は、こともあろうに怨霊に仕立てあげてしまったのでしょうか?
 
私は、「そのほうが面白かったから」ではないかと考えます。
 
 
現在、ある少年マンガ誌で連載されている作品に坂本龍馬が登場します。
坂本龍馬と言えば、誰もが知る、近代日本史のヒーローです。しかし、件のマンガでは、龍馬は日本の破壊を図る、大悪党のテロリストとして描かれています。
しかし、これがね…、悪党である龍馬が、実に格好良く、またしっくりと来るんですよね。
 
 
価値観の逆転は、新たな視点、新たな発想を生み、新鮮な感動を与えます。
鶴屋南北が描いたお岩さんとは、まさしく価値観の逆転が生み出したダークヒロインではないでしょうか。
 
最近では、四谷怪談をモチーフに再構成された『嗤う伊右衛門』(京極夏彦 著)が大ヒットしました。
なぜ、醜く恐ろしいはずのお岩さんが我々の心をつかむのでしょう?
それは物語に漂う退廃が、時代に漂う退廃と共鳴し、実に美しく、そして悲しく、我々の心に刺さるからではないかと、私は思います。
 
そう考えると、便乗商法(と言ってしまいましょう!)の結果として、ふたつの於岩稲荷が並んでいる滑稽さも、ひとの営みそのものを表すようで実に愉快です。
 
 
秋元通信は、『井戸端会議』をコンセプトにしています。お客様とのちょっとした雑談などで使えるネタを提供する、そんなコンセプトを当社は『井戸端会議』と呼んでいるのですが。
今回のテーマは、まさしく雑談ネタであり、うんちくネタとして格好の素材です。ぜひ、皆さまも「知ってる?、お岩さんってさ…」とうんちくネタとしてご活用ください。
 
たまには、こういったゆるい秋元通信も良いですね。また機会があれば、お届けしましょう!
 
 
 

フォトギャラリー

 
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参考

 
四谷怪談 – Wikipedia
https://ja.wikipedia.org/wiki/四谷怪談
 
 
実録四谷怪談―現代語訳『四ッ谷雑談集』 江戸怪談を読む / 横山 泰子(序) 広坂 朋信 (訳・注)
 
 
四谷怪談―悪意と笑い / 廣末 保
 
 
 


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