「個人のリスキリングに対する公的支援については、人への投資策を5年間で1兆円パッケージに拡充します」
これは、2022年10月3日の臨時国会における、岸田首相の所信表明演説の言葉です。
「1兆円も投じるリスキリングって何??」と感じた方もいるかもしれません。
今回は、リスキリングについて解説しましょう。
リスキリングとは、企業が、市場ニーズや企業内の経営・ビジネス戦略に適合するような人材を育成すべく、従業員を教育する機会を提供したり、促す行為を指します。
最近では、DXの文脈でリスキリングの重要性やら必要性が論じられることも多くなっています。これも、「DXの重要性はわかっているけど、DXを遂行できる人材がいないんだよなぁ…」といった企業の悩みから、リスキリングが注目されているわけです。
似たような言葉で、リカレント教育があります。
「リカレント(recurrent)」とは、「繰り返す」「循環する」という意味で、学校教育を一通り経験した、企業で働いている人や、もしくは仕事を離れた専業主婦、あるいは定年退職した人などが、新たに学び直すことを指します。
「学び直し」の目的はさまざまです。職業上、必要となった職能を学び直すこともあれば、趣味に活かすため、あるいは学びそのものを生きがいとして、学び直す人もいるでしょう。
このように解説すると、企業が主体となるのがリスキリング、個人が主体となるのがリカレント教育と理解する人もいると思います。実際、そのように説明されているケースもありますし。
ただし、少なくとも現状ではリスキリングとリカレント教育との違いはあいまいで、混同され使用されているケースも多くあります。
「どちらも似たようなもの」と理解しておくくらいで、ちょうど良いかと存じます。
2019年7月、Amazonは、巨大なリスキリングプロジェクトを発表しました。
米Amazonの従業員10万人を対象に、2025年までに7億ドルを投じてリスキリングを行うというものです。
このプロジェクトでは、以下のような取り組みを行うそうです。
- 技術職以外の従業員を技術職へ移行させる「アマゾン技術アカデミー(Amazon Technical Academy)」
- テクノロジーやコーディングといったデジタルスキルを持つ従業員が機械学習スキルを獲得することを目指す「機械学習大学(Machine Learning University)」
リスキリングの事例としてよく取り上げられるのが、米国の通信事業者であるAT&Tです。
「全従業員25万人のうち、今後注力すべきソフトウェア関係事業に必要なサイエンスやエンジニアリングのスキルを持つ者は約半分だけ。約10万人は、10年後には存在しないと予測されるハードウェア関係の仕事に従事している」
これは、AT&Tが2008年に行った社内調査の結果です。
それまでハードウェア関連の事業を主軸としていたAT&Tが、2000年以降に発生したスマートフォンの普及、通信速度の高速化といったマーケットの変化に対し、従業員のスキルにおけるミスマッチが発生していることが明らかになったのです。
そこで、AT&Tは、2013年に「ワークフォース2020」なるプロジェクトを立ち上げました。
同プロジェクトでは、2020年を見据え、AT&Tが必要とするスキルセットを特定し、そのために必要なリスキリングへの取り組みを洗い出しました。
そして、2020年までに10億ドルを投じ、従業員10万人のリスキリングを行ったのです。
同プロジェクトの柱は、以下の3つとされています。
- 給与体系の変革を伴う、社内環境の整備
リスキリングを従業員に求めるのであれば、「どんなスキルが必要とされるのか?」「リスキリングを行った結果、どういう報酬を得られるのか?」といったことを従業員に示す必要があります。
加えて、社内での人事異動を円滑に行うために、人事制度の改定も必要となります。
- リスキリングによって得られるキャリアパスを検索できるツールの提供
AT&Tは、「キャリアインテリジェンス」なるツールを従業員に提供しました。
従業員は、このツールによって、社内で求められる職種や仕事を検索し、その部門の見通し、その部門に異動することによって得られる賃金などの情報を得ることができます。
もちろん、自身が望む部門に異動するために必要なスキルを検索することも可能です。 - リスキリングのための教育・訓練機会とツールの提供
外部の教育機関や大学などと連携し、リスキリングを望む従業員が教育を受ける方法を提供しました。
また、従業員には「パーソナル・ラーニング・エクスペリエンス」なるツールを提供し、自身の望む仕事に就くための訓練コースを探し、その講座の予約や履修履歴などを確認できるようにしました。
このツールは、自身の得たスキルを評価・確認し、社内で就業可能な仕事を検索することもできるそうです。
AT&Tは、「ワークフォース2020」という野心的で意欲的なリスキリングプロジェクトによって、大きな成果を得ました。
現在、AT&Tでは、社内の技術職の81%を社内異動で充足できているそうです。
また、リスキリングプログラムに参加する従業員は、そうでない従業員と比べ、1.1倍高い評価を得て、1.3倍表彰され、1.7倍昇進している上で、離職率は1.6倍低いんだとか。
運送会社を例に考えます。
配車マンの定年退職が決まっており、後任の配車マンが必要だとしましょう。
まず、外部から中途採用するケースです。
配車マンと言っても、運送会社によって求められるスキルは千差万別です。混載をメインにしている運送会社であれば、配車マンは、ルート、積み合わせを勘案する能力が求められます。
対して、24時間365日、コンビニへのルート配送をメインとする運送会社では運送ルートの立案能力よりも、コンプライアンスに従い、ドライバーたちの適切な勤務スケジュールを立案することのほうが大切になります。
極論ですが、鉄骨メインの運送会社で働いていた配車マンが、食品配送、しかも冷凍冷蔵の管理と、ミルクランを主とする運送会社の配車マンを務められるかといえば、実際にはかなり難しいでしょう。
配車マンのような、会社ごとに固有の事情があるような職務の場合、外部から人材を登用するのは難しいです。多くの運送会社が、ドライバーをリスキリングして、配車マンに登用するのはこのような事情があります。
前述のとおり、リスキリングは、DX人材を確保する目的として注目されることが多くなっています。
もしかすると、デジタルスキルであったり、もしくは改革プロジェクトの遂行やリーダーシップについては、外部から人材登用したほうが、よりスキルフルな人材を確保できるかもしれません。
ただし、こういった人が、その企業の文化や慣習、理念などをきちんと理解してくれるかどうかという不安は常につきまといます。
「あいつは確かに優秀なんだけど、話をしているとウチの会社のことを全否定してくるんだよなぁ…」──外部から改善・改革のための人材を迎え入れた会社で、よく聞かれる愚痴です。
このような企業文化に対するミスマッチを防ぐためには、以前から勤めていた人材を登用、リスキリングして新たなシーンで活躍してもらったほうが、なにかと都合が良いこともあるわけです。
諸々諸事情を勘案すると、改善・改革、もしくは新規事業などを立ち上げるとき、外部人材を登用するよりも、社内人材をリスキリングして担当させるほうが、結果的に費用対効果の面からメリットが大きいという考えがあることも、付記しておきましょう。
と言っても、リスキリングは万能ではありません。
リスキリングを受け入れてくれる社内人材、リスキリングで能力を発揮してくれる社内人材を見つけるのも、かんたんではないでしょう。
また、現状の職務とあまりにかけ離れたリスキリングは、手間と時間が掛かるばかりで当人の負担も大きく、メリットが少なくなるケースもありえます。
例えば、倉庫作業員をリスキリングしてプログラマーにしようという考えがあります。Amazonはこれをやろうとしていますが、それはAmazonのような、何万人規模の倉庫作業員を抱えている会社だからできることであって、従業員1,000人くらいまでの会社であれば、より適切なリスキリング(もっと言えば、人材の再配置)があると、筆者は考えます。
倉庫作業員をプログラマーのような、言わば形を変えた作業員に任じるよりは、倉庫作業の経験を活かせる業務、例えば倉庫作業のデジタル化を推進するプロジェクトマネージャーとしてリスキリングするのはどうでしょうか。
倉庫作業員として働いた経験を活かし、新たなWMSの選定、倉庫内作業の見直し、自動倉庫化プロジェクトの旗振り役として、リスキリングしてもらうわけです。
社内失業という言葉があります。
AT&Tでは、全従業員24万人中、10万人が社内失業する危険性があるとして、リスキリングプロジェクトに着手したわけですが。
リスキリングを遂行する上で、どちらのほうが、より従業員に響くと思いますか?
- 「このままだと社内失業しちゃうよ。君の仕事は、10年後にはなくなっちゃうんだよ」と(言い方は悪いですが)脅しをかける方法。
- 「君の経験を生かして、より創造的で大きな仕事を任せたいんだ」と仕事のスケールアップを訴える方法。
間違いなく、後者でしょうね。
一見、魔法の杖とも捉えられることが多いリスキリングですが、リスキリングを実際に行う上では、企業側にも、そしてリスキリングを求められる従業員側にも大きな負担を伴います。
リスキリングは、決して万能ではなく、従業員にどうやって理解を求めていくか、という点に関しては、工夫をこらさなければならないでしょう。