いよいよ、「物流の2024年問題」におけるターニングポイントとなる2024年4月1日がやってきます。
メルマガ「秋元通信」では、「物流の2024年問題」について、さまざまな方向から考えていく、「物流の2024年問題とはなにか?」を不定期でお届けしてきましょう。
「物流の2024年問題」については、さまざまな方向からの報道が行われています。
中でも「物流の2024年問題」の課題を論じる報道については、概ね以下のような傾向に分類されます。
- 「物流の2024年問題」を契機に、トラックドライバー、ひいては運送会社や倉庫会社などで働く物流従事者全体の待遇の悪さを訴える内容
- 「物流の2024年問題」に対抗するため、業務改善・業務改革、あるいは物流DXなどを行っている取り組みを紹介する内容
もうちょっとわかりやすく、そして記事の根底に流れるメンタリティから言えば、
- 前者は、「トラックドライバー(を始めとする物流従事者)って可哀想じゃないですか!?」
- 後者は、「『物流の2024年問題』に前向きに取り組んでいる人たちを応援し、あるいは見習おう!」
こういう想いが込められています。
筆者も「物流の2024年問題」に関連し、さまざまな記事を執筆してきましたが、特にYahoo!ニュースに記事が配信される場合、圧倒的にウケるのは、前者、つまり「『物流の2024年問題』でこんなに虐げられる我々ドライバーって、可哀想でしょ?」という記事です。
逆に、後者のような記事を書くと、「現場を知らないやつはこれだから…」「どうせ、一部の大手企業しかできないことだし」といった否定的なコメントが多数並びますし、そもそも閲覧数が伸びません。
これってどうなんですかね…
自己憐憫や被害者意識は、たしかに心にある種の安寧をもたらします。
しかし、こと「物流の2024年問題」という現実的な課題が目の前にある今、そんなことを言っている場合ではないと思うのですが。
- トラックドライバーの負担軽減という視点の欠如
長時間労働は、ドライバーの健康や安全を損なうだけでなく、過労運転による事故リスクも高めます。長時間労働規制における本来の目的は、ドライバーの負担を軽減し、安全な労働環境を実現するためのものであるはずです。 - 労働時間と収入の関係の単純化
「長時間労働をしないと稼げない」、そして「長時間労働は当たり前」という風潮が、結果としてドライバーの低賃金労働を招いている事実に気がつくべきです。
低賃金である今の自分達の待遇を、当たり前と思ってしまっているわけですから。
そして、これがもっとも大きな問題だと、筆者は考えているのですが。
- 問題解決に向けた具体的な提案の不足
「かわいそう」という主張は、問題の深刻さを訴える効果はありますが、具体的な解決策を提示するものではありません。
「トラックドライバー(を始めとする物流従事者)って可哀想じゃないですか!?」という主張にも、問題の深刻さを、物流従事者以外の人々に訴え、世間に対し、「物流の2024年問題」という社会課題の大きさをアピールする効果はあるということですね。
ただし、同情だけされても、自らを取り巻く環境は変わらないですよ。
世間の人たちは、「物流の2024年問題」を契機に、ドライバーへの同情をしても、やっぱり物流費高騰による物価上昇は嫌がるわけです。
だとすれば、前向きな──すなわち、「物流の2024年問題」に対抗できる具体的な方法論に対する議論を行わず、ただ「我々ドライバーって可哀想でしょう?」と訴えるのは、単なる自己憐憫や被害者意識に基づく、負の行動と言わざるを得ないのではないでしょうか?
少し、昔話をさせてください。
筆者がトラックドライバーだった頃、会社に対し、ある新規のビジネス提案をしたことがありました。
ドライバーとして日々働いていた経験から、私は新たなビジネスの可能性を感じ取り、会社に提案したのですが。
提案した役員から、次のように言われて、提案書は突き返されました。
「トラックドライバーは、余計なことを考えなくてもいいんだ! それよりも日々の業務をしっかりと行いなさい」
当時、私は20代なかばで、しかも普段から生意気な態度を取っていましたからね。
たぶん、件の役員からすれば癇に障ったのでしょう。
これが、私がトラックドライバーを辞めた原因でした。
「俺、このままドライバーを続けていて大丈夫なのかな…」
長距離に出るたびに、深夜の高速道路を走りながら、当時の私は、漠然とした、しかしどうしようもない不安感に襲われていました。
その不安感が、会社に新規ビジネスの提案をするモチベーションとなったのですが。
私がショックだったのは、提案を却下されたことではなく、「余計なことを考えるな!」と言われたことでした。
「余計なこと」を考えず、このままハンドルを握り続けて、その先に私の将来はあるのだろうか…?
以前ある取材で、「トラックドライバーとしてスキルを高めるために、さまざまな運送会社を渡り歩いてきました」というドライバーに出会ったことがありました。
彼は、チルド食品を運ぶ冷凍冷蔵車から、鉄骨を運ぶ大型平ボディ車、大型産廃物を運ぶ平トレーラー、一時期は宅配を極めるべく、軽バン配達員までやっていたそうです。
たしかに、彼ほどさまざまなトラックと荷物を運んだ経験があるドライバーは、なかなかいないでしょう。
「でも、どこの運送会社も、僕のスキルと経験を認めて厚遇してくれないんですよ」と彼は嘆きます。
当然でしょうね。
そもそも、大小を問わず、多くの運送会社は取り扱う荷物の種類がある程度決まっています。「今日は鉄骨を運ぶけど、明日は軽バンに乗り換えて宅配を担当してね」なんていう運送会社は、ほとんど存在しないでしょう。取り扱い荷物のテリトリーが広い運送会社でも、同じ営業所内で、日々まるで異なる荷物を扱うケースはありません。
彼がスキルフルなのは確かでしょう。
しかし、それは宝の持ち腐れになってしまっているのです。
もし彼が、ドライバーであることにこだわることをやめ、内勤職になっていれば、彼の得てきた知識と経験を会社の業務拡大に活かす道もあったかもしれません。とは言え、彼の知識と経験を活かせるほどの大手物流企業は、40半ばにして20社近くの運送会社を渡り歩いてきた彼を採用しないでしょう。
何が言いたいかと言うと…
ドライバーがドライバーとしてだけ働くことを求められてしまうと、自らのキャリアパスを高めていくようなスキルアップは難しいのです。
もちろん、20代なかばの生意気な若造であった当時の筆者が、ここまでのことを見通していたわけではありません。しかし、「ドライバーは、余計なことを考えなくてもいいんだ!」という言葉に、絶望と危機感を直感的に感じるだけの感性はありました。
だから、私はトラックドライバーを辞め、他業種へと転職したのです。
物流をテーマにさまざまなメディアで執筆活動をしている筆者は、自分自身の経験もあり、「物流の2024年問題」を「トラックドライバーが可哀想」という論点から論じることは、トラックドライバーを筆頭とする物流従事者への侮辱であると感じてしまいます。
某有名ドラマの、「同情するなら金をくれ!」というセリフを引き合いに出せば、必要なのは「同情するなら金をくれ」ならぬ、「同情するなら対策をくれ」ではないでしょうか。
同情されるのは、ある意味、心地よいことです。
これは、被害者意識、自己憐憫、承認欲求などの心理学上の言葉で説明されます。
ただし、「物流の2024年問題」という社会課題に対し、「可哀想」で論じるのは、やはり問題があるのではないでしょうか。
メルマガ「秋元通信」では、物流業界が直面する社会課題である「物流の2024年問題」について、今後も考えていきます。
次回もお楽しみに!