秋元通信

家康のお墨付き!? 芝雑魚場の記憶

  • 2018.4.10
田町駅北側にある、海側と内陸側をつなぐ小さな通路。かつての芝金杉雑魚場を偲ぶ場所である。

JR山手線田町駅の北200mほどのところに、山手線の下をくぐり海側と内陸側をつなぐ小さな通路があります。
「雑魚場架道橋」、通路の入口にはこのように書かれています。
 


 
かつてここには、芝雑魚場(芝金杉雑魚場)と呼ばれる魚市場がありました。雑魚場は、「ざこば」と読みます。
今回は、徳川家康、そして江戸幕府とも深い縁のあった芝雑魚場の記憶を掘り起こしましょう。
 
 
かつての東京湾海岸線は、今よりもずっと内陸部にありました。例えば、東京ミッドタウン日比谷のオープンやゴジラの登場などで注目を集める日比谷エリア、ここはかつて日比谷入江と呼ばれ、江戸時代以降に埋め立てが進んだ地域です。
 
今回の舞台である、浜松町~田町~品川間の海岸線は、近代まで現在の山手線線路とほぼ同じラインを描いていました。と言うよりも、明治5年(1872年)、新橋~横浜間に開業した日本初の鉄道が、浜松町から田町、品川に至る当時の海岸線(一部、海側の埋め立てを含む)に沿って線路を敷いたわけです。
 
 
江戸幕府開府以前、現在の田町駅北側は、芝浜、そしてそのさらに北側は金杉浦と呼ばれていました。以降、ふたつの地区をあわせて「芝金杉」と呼びます。
品川湊は、室町時代から漁港としてたいへん栄えていたようですが、対して芝金杉浦は農民が生活のために漁も行うような、半農半漁の村落であったようですね。
 
芝金杉が発展するきっかけをつくったのは徳川家康だったとされます。

天正18年(1590年)徳川家康が江戸幕府を開くために関東に入る際、家康を載せた船が浅瀬に乗り上げ岸に着けなくなってしまった。そこで、近くにいた芝浜と金杉浦の漁師たちは力を合わせて船の救出活動を行った。家康は彼らの働きに感謝し、武家として取り立てようとしたが漁民がそれを受けなかったため、代わりに望みを叶えてあげようと言った。
そこで漁師たちは、『全国どこの海域でも漁ができるようにして欲しい』と希望したところ認められ、『水深が三尺(約1m)あるところであればどこでも漁をして良い』というお墨付き(公の許し)を貰うことができた。
そこで、彼らは感謝の意を込めて、上等な魚介類が穫れた時には徳川家康に献上することとしたのである。

これは「芝浦漁業起立」(明治12年)に記載された内容です。
まあこれは…、どうも誇張みたいです。歴史を書き残す際、ちょっとサービス精神を発揮してしまったんでしょうね。
 
ただし、江戸時代の芝金杉が漁業で栄え、そして特権を持っていたことは確かです。
例えば、「芝海老」は芝金杉浦の特産であったため、「芝」の字を冠して名付けられたと言われています。
また、芝金杉の漁民が江戸幕府に納めた魚介類は、将軍家の御菜(=おかず)として重用されたことから、芝金杉は「御菜が浦」(おさいがうら)と呼ばれるようになりました。
その後、御菜が浦は、品川浦・大井御林浦・羽田浦(東京)、生麦浦・新宿浦・神奈川浦(横浜)を加え、「御菜八が浦」と呼ばれるようになりました。江戸は、当時世界的にも最大の発展を遂げた街であり、18世紀初頭の人口は100万人を超えていたとされます。「御菜が浦」が、「御菜八が浦」に拡大した背景には、江戸の街における人口増と、それに伴う食料供給事情があったのでしょう。
将軍家に献上した後、残った魚は当初日本橋に近い小舟町の芝河岸で販売されていました。やがて、東海道が整備されるにつれ、東海道そばにあった芝金杉地区には雑魚場(ざこば)と呼ばれる魚市場が形成され、残った魚は雑魚場で売られるようになりました。
将軍家に納める高級魚以外の魚、つまりは雑魚を売る市場だったから雑魚場だったわけです。
芝金杉雑魚場、そして船着き場があったのが、現在の田町駅北にある雑魚場架道橋、そしてその前にある本芝公園付近でした。
 
 
繁栄した芝金杉雑魚場ですが、江戸末期から次第に衰退し、やがて昭和43年(1968年)に漁業権を放棄、昭和45年(1970年)には完全に埋め立てられて、現在の本芝公園となりました。
芝金杉雑魚場が衰退した理由のひとつとして、台場の存在が挙げられます。
ちなみに台場とは、江戸末期、開国を迫る諸外国から江戸を守る防衛のため、東京湾に作られた複数の要塞を指します。現在、当社芝浦本部からレインボーブリッジを渡った対岸にある地区をお台場と呼ぶのは、現代も残る「台場」に由来します。
 


 
芝金杉雑魚場の沖合に、台場という人工島を作ってしまったため、海流が変わり魚が取れなくなった、というのが芝金杉雑魚場衰退の理由のひとつ。
ただし、この説には異論もあります。
江戸という巨大都市が垂れ流すゴミが江戸湾(東京湾)の海洋汚染を起こし、江戸末期には漁獲量が減っていたという説もあります。
東海道、そして日本初の鉄道という、人と物流の大動脈を近隣に抱えた芝金杉地区の住民にとって、わざわざ漁師をしなくとも、もっと効率の良い仕事がたくさんあったから、という説もあります。
 
いずれにせよ、江戸幕府から御菜八が浦という誉れを受け、徳川将軍家の胃袋を満たした芝金杉の漁業は、日本の近代化とともに消えていきました。
 

田町駅港南地区では、急ピッチで新たなオフィスビルが建設中です。

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現在、田町駅港南地区は大規模な開発が行われています。東京23区内において、もっともドラスティックな変化が起きている地区、と言っても過言ではありません。
 
筆者が芝雑魚場の存在に気がついたのは、雑魚場架道橋が、当社本部に至る私の通勤ルートだったから。
東京の街は面白いですね。いたるところに歴史が残っています。
東京に限らず、歴史の記憶は街のあちこちに隠れています。
皆さまも、探してみてはいかがでしょうか。
 
 
 

出典

 
本記事執筆に際して、東京都港区郷土資料館から所蔵の図書を閲覧させていただきました。
この場を借りて、ご協力に感謝申し上げます。
参考にした図書は以下のとおりです。

  • 江戸前の魚民 -芝・金杉浦の記憶-
    木下達文著 港区教育委員会発行
  • 港区埋蔵文化財調査年報2 (平成15年度の調査他)
    旧雑魚場地区埋蔵文化財有無確認試掘調査報告
    2005 港区教育委員会
  • 特別展 魚影を追って -東京湾内漁業の世界-
    港区郷土資料館 平成7(1995)年

なお、本記事に書いた内容については、研究家によって諸説異論があることをご承知おきください。
 
 


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