秋元通信

怒りながら叱るのはダメ? 【アメとムチは、どちらが効果的なのか?】

  • 2017.3.28

筆者は20代なかばから約7年間、ある営業会社にいました。

「数字を残せない奴は生きている資格がない」

誇張ではなく、このような考え方が正義とされる、典型的かつ猛烈な営業会社でした。
実は私、トップセールスマンでした。ところがある時、どうにもならないスランプに陥ります。きっかけは、信頼されていた(と自分が思い込んでいた)お客様からのクレームです。自分でも、理由も分からず、ただもがくばかりで営業成績は加速度的に落ちていきました。
 
上司からは毎日怒られます。
「目標はどうした? 必要数を理解しているのか!? てめえ、トップセールスだった過去に甘えてんじゃねえのか!!」
 
最初の頃は、私も「いや、数字を出せない自分が悪い…」と叱責に甘んじていたんですが…
人間のできていない私が、いつまでもそんな叱責に受け身でいられるわけがありません。ある時、切れてしまったんですね。
 
「毎日毎日うるせえよ! 好きで成績落としているわけじゃないって!! お前の小言は中身がないんだよ。そんなにガミガミ言うんだったら、俺の成績が戻るアドバイスのひとつくらいしてみろよ!!!」
 
どうなったと思いますか?
数日間、私は件の上司から無視された挙句、他の営業所に飛ばされました。当然、モチベーションは下がる一方です。異動して数日後、営業本部長から呼び出されました。そういう会社で、そういう役職についているわけですから怖い人です。当然、私は怒られるものと覚悟して向かいました。
ところが、怒られないんですよ。僕の顔を見て、しばらく世間話を続ける部長。そのうち、話は部長が平営業マンだった時のエピソードに移ります。
 
「俺もな、数字が残せない時は落ち込んだよ…。その時につけてたノートがあるんだけど、よかったら見てみるか?」
 
正直に言うと、ノートの内容は覚えていません。特に参考になることもなかったような覚えがあります。ただし、その時に感じた「救われた…」という感謝の気持ちは、今でもはっきりと覚えています。
 
「何故、怒らないんですか?」
そう尋ねた私に、部長は言いました。
 
「怒ってお前が復活するんだったら、いくらでも怒るけど…。今のお前に必要なことは、怒られることではないと思ったんだ」
 
 
さて、不定期連載「アメとムチは、どちらが効果的なのか?」の4回目は、「ムチ」を使う上での大事な注意点である、「叱る」と「怒る」の違いを考えてみましょう。
 
前号「『叱る』の役割」では、明治期に発行された「学校管理法書」における、教師の役割に触れました。明治初期における「学校管理法書」では、教師は裁判官でした。しかし、明治中期になると、教師の役割は以下のように変化します。
 
「教師は医者である。罰は逸脱者に対する矯正、訓練を行う治療手段とされるべきである」
 
前号では、「ムチ」≒「叱る」、「ムチ」≒「罰」として議論しましたが、ここでは、「叱る」と「怒る」の違いについて注目します。
 
「叱るときには、怒ってはいけない」
こんな言葉を聞いたことはありませんか? しかし、叱る時に怒らない、というのは実際には難しいことでもあります。
なぜでしょうね?
 
「怒り」の仕組みを研究したアラバマ大学の心理学者:ドルフ・ツィルマンによれば、「怒り」という感情のきっかけは、万人共通で「危険にさらされた」という意識なんだそうです。
「怒り」の原因はさまざまです。
幼児期には、身体的な痛みに対して怒ることもあるでしょうし、もう少し大きくなると自分の思い通りにならないことに対する不満や、自己主張のために怒るケースもあるでしょう。大人になると、「怒り」の原因は複雑になり、例えば「不当な扱いや無礼な扱いを受けた」、「侮辱された」、「大切な目標達成の邪魔をされた」、「自分の主義や主張を否定された」なども考えられます。
言われてみれば、これらはいずれも、「危険にさらされた」という意識から発している、と考えることもできます。
 
「叱られる」対象は、悪いことをした人です。悪いことをした人は、もしかしたら(叱ろうとしている)自分に対し、害を与え、危険にさらすかもしれません。だから、「叱る」に「怒る」をミックスしても良い…
前号では、悪いことをした児童を「準犯罪者」と仮称し、教師が罰を与える理由付けを説明しました。自分を危険にさらす可能性のある対象は、怒られてしかるべき対象であるという考え方は、「叱る」と「怒る」を同一視する理由のひとつになりえます。
 
しかし、この理屈には大きな欠陥があります。
 
「アメ」と「ムチ」は、教育のために行われる手法を議論するものです。当然、「叱る」も教育のために行う手段のひとつであるはずなのですが、「怒り」という感情は、「危険にさらされた」という意識、つまり自分自身のために発する自己防衛本能とも言うべきものであり、相手を育てるための教育とは相容れません。「怒り」は、相手のことを思いやって発される感情ではなく、あくまで自己都合であるからです。
 
「叱る」に「怒る」をミックスするのは難しいです。相手を思いやる心と、自分を守る心と、ベクトルが違うわけですから。だからこそ、「怒り」を混ぜて「叱る」際には、表面上はどう見えようとも、心中では極めて冷静に自分自身をコントロールする技術が必要なのです。
 
 
冒頭のエピソードに戻りましょうか。
私が件の会社を辞める時、私に噛みつかれた上司は、私を引き止めました。腐れ縁でしょうか、近づいたり離れたりしながら、問題の上司は、退職時に再び私の上司になっていたのです。
 
引き止める彼の言葉を一顧だにせず、退職の意志を揺るがせない私に対し、上司は言いました。
 
「俺も営業が弱くなったなぁ…」
 
「そう言うあなたじゃなければ、私も退職を考え直したかもしれませんね」
 
はて、私の真意は、彼に伝わったんでしょうかね?
まあ、どうだっていいんですけど…(笑
 
怒りながら叱るのはダメ?
 
 

参考

 

【アメとムチは、どちらが効果的なのか?】バックナンバー
  1. 「アメとムチ」は、どちらが効果的なのか?
  2. 褒めると損をする!?事故が減らせない運送会社
  3. 「叱る」の役割
     
参考/出典

教育社会学研究 第98集 2016 日本教育社会学会編
「生徒への罰からみる教師像の成立と変容 ー明治前期の「学校管理法書」に着目してー
水谷 智彦

「怒り」 -Wikipedia
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%80%92%E3%82%8A


関連記事

■数値や単位を入力してください。
■変換結果
■数値や単位を入力してください。
■変換結果
  シェア・クロスバナー_300